旭陽の部屋

好きな物(韓国ドラマ、短歌、二次小説)、日々の出来事、想うことなどあれこれ。 gooブログ、ライブドアブログから引越た記事もあります。

ラジオから、昔の私が書いた物語へ

私は、ラジオ好きというほどではありません。

 

 

 

普段、自分からラジオをつけることは、ほとんどありません。

 

 

 

小学生の頃には歌謡曲のベストテン番組を毎週のように聴いていましたし、高校時代には寝る前のルーティンで聴いていた夜のラジオ番組もありました。

 

 

 

それなのに、「ラジオ」と聞いて最初に浮かんだのは、番組でも音楽でもありませんでした。

 

 

 

ある朝、ラジオから聞こえてきた訃報でした。

 

 

 

いつもの朝、車の中で

 

 

仙台に住んでいた頃、毎朝、夫を会社の近くまで車で送っていました。

 

 

 

車に乗ると、夫がラジオをつけます。

 

 

 

私にとってラジオは、自分から「聴こう」と思って聴くものではなく、いつもの朝の車の中に流れている音でした。

 

 

 

その朝も、いつもと同じでした。

 

 

 

私は助手席で、うとうと居眠りをしていました。

 

 

 

すると突然、

 

 

 

パク・ヨンハさんが亡くなったというニュースが聞こえてきました。

 

 

 

ビクッとして、飛び起きました。

 

 

 

眠気なんて一瞬で吹き飛びました。

 

 

 

『冬のソナタ』でサンヒョクを演じていたパク・ヨンハさん。

 

 

 

まだ若かった彼の突然の訃報を、私はラジオで知ったのです。日本でも活躍され、ファンもたくさんいる役者であり歌手。

 

 

 

それ以来、「ラジオ」と聞くと、あの朝の車の中がよみがえります。

 

 

 

好きではなかったサンヒョク

 

 

『冬のソナタ』を見ていた頃、私はサンヒョクが好きではありませんでした。

 

 

 

私が好きだったのはユジンです。

 

 

 

だから、ユジンを苦しめるサンヒョクには、

 

 

 

「もう、ユジンを自由にしてあげてよ、マザコン男💢」

 

 

 

と思っていました。

 

 

 

ところが、『冬のソナタ』の二次小説を書くようになると、少しずつ変わっていきました。

 

 

 

ユジンやジュンサンだけではなく、

 

 

 

「サンヒョクは、あの時どう思っていたんだろう」

 

 

 

と、サンヒョクの側から物語を見るようになったのです。

 

 

 

ドラマを見ていた時には好きではなかった人物なのに、その心の中を想像して書いているうちに、サンヒョクもまた、私の中で大切な登場人物になっていきました。

 

 

 

みんなで書いた『お昼の校内放送』

 

 

昔の作品を辿ってみると、私は物語の中でも「放送」を何度も書いていました。

 

 

 

『お昼の校内放送』という連作があります。

 

 

 

連作というのは、主催する人がいて、二次小説仲間が物語を書きつないでいくものです。

 

 

 

前の人が書いた物語を受け取って、次の人が続きを書く。

 

 

 

また別の人が続きを書く。

 

 

 

みんなで書くので、40回近くまで続くこともありました。

 

 

 

連作は、基本一回読み切りなのですが、ひとつの題名で書きつなぐので、一人で書くのとはまた違った楽しさがあります。

 

 

 

『お昼の校内放送』の中に、『追悼放送』という一作があります。

 

 

 

亡くなったと思われていたカン・ジュンサンを偲ぶ、校内での追悼放送です。物語の中で、ジュンサンは大晦日に亡くなったことになっています。年が明けて最初の放送で何もなかったようにお昼の放送があるのは変じゃない?と思ったのがきっかけでした。

 

 

 

もちろん、『冬のソナタ』を知っている人なら分かるように、ジュンサンは本当は生きています。

 

 

 

その追悼放送を発案したのが、放送部の部長だったサンヒョクです。

 

 

 

現実の私は、車のラジオから、サンヒョクを演じたパク・ヨンハさんの訃報を聞きました。

 

 

 

一方、昔書いた物語の中では、サンヒョクが、亡くなったと思っているジュンサンのために追悼放送を企画していました。

 

 

 

今になって二つを並べてみると、なんとも不思議な重なりを感じます。

 

 

 

サンヒョクと言えばシニョン

 

 

『お昼の校内放送』の別の回には、シニョンという女子高生が登場します。

 

 

 

目立たないけれど、サンヒョクに憧れている後輩の女の子です。

 

 

 

優秀で真面目で、顔だってハンサムなサンヒョク。

 

 

 

あんな男子が学校にいたら、教室の隅からひそかに憧れている女子が一人くらいいるだろう。

 

 

 

そんなところから生まれたのが、シニョンでした。

 

 

 

そのシニョンが、憧れのサンヒョクと一緒に校内放送をする回を書きました。

 

 

 

私は昔から、ラブラブな場面を書くより、

遠くから好きな人を見ている女の子を書く方が得意です。

 

 

 

自分自身、片思いばかりの人生だったからでしょうか。

 

 

 

だからシニョンは、自分でもお気に入りのキャラクターになりました。

 

 

 

6年後、シニョンはラジオ局にいた

 

 

『お昼の校内放送』を書いてから6年後。

 

 

 

今度は『バラ園にて〜』という別の連作に

シニョンを登場させました。

副題は『届けられなかったラブレター』

 

 

 

サンヒョクとチェリンの婚約披露パーティをめぐる物語です。

 

 

 

これも私一人で書いたものではなく、二次小説仲間と書きつないでいた連作でした。

 

 

 

私が書いたのは第27回。

 

 

 

そして、この連作はそこで止まっています。

 

 

 

私が主催した連作ではないので、勝手に続きを書いて完結させるわけにもいきません。

 

 

 

その後どうなったのかは、今でもちょっと気になります。

 

 

 

さて、6年ぶりにシニョンを登場させた理由は簡単です。

 

 

 

私の中では、

 

 

 

「サンヒョクと言えばシニョン」

 

 

 

だったからです。

 

 

 

そして高校時代、校内放送をしていたシニョンは、6年後に書いた物語の中で、ラジオ局のアナウンサーになっています。もちろん、初恋の人サンヒョクを追いかけてラジオ局へ入ったんです。

 

 

 

校内放送から、ラジオ局へ。

 

 

 

6年も間が空いているのに、シニョンの人生の中では「放送」がちゃんと続いていました。

 

 

 

ラジオから始まって

 

 

「私とラジオ」について書こうとして、最初は昔聴いていた番組に思いを巡らせるはずでした。

 

 

 

小学生の頃のベストテン番組。

 

 

 

高校時代、夜に聴いていたラジオ。

 

 

 

探せば、きっといろいろあります。

 

 

 

でも今回、最初に出てきたのは番組の名前ではありませんでした。

 

 

 

夫を会社へ送っていた、いつもの朝。

 

 

 

助手席で居眠りしていた私。

 

 

 

突然ラジオから聞こえてきた、パク・ヨンハさんの訃報。

 

 

 

そこから『冬のソナタ』へ行き、サンヒョクへ行き、昔書いた二次小説へ。

 

 

 

『お昼の校内放送』の『追悼放送』を通り、シニョンに会い、6年後の『バラ園にて』まで行ってみたら、シニョンはラジオ局のアナウンサーになっていました。

 

 

 

そして、またラジオに戻ってきました。

 

 

 

ラジオについて書こうとして、行き着いたのは昔、私が書いた物語でした。

 

 

 

記憶って、どこで何とつながっているのか分からないものですね。

 

 

 

そして今日もまた、昔の物語を辿りながら、昔の私に会いに行っていたようです。🍀

 

 

#パク・ヨンハ

#サンヒョク

#お昼の校内放送

#わたしとラジオ

#バラ園にて

 

 

 

『自分史』を編む〜子どもたちに残したいもの

日記を付けているうちに、昔のことを思い出すことが増えました。

 

 

 

その日の出来事を書いているはずなのに、

ひとつの言葉から子どもの頃のことを思い出したり、母や父から聞いた話につながったり。

 

 

 

そんなことを繰り返しているうちに、エンディングノートとは別に、自分史も書いてみたいと思うようになりました。

 

 

 

エンディングノートが、これから先のことや、家族に伝えておきたいことを残すものだとしたら、自分史は、これまで生きてきた時間を振り返って残すもの。

 

 

 

さて、何から書こう。

 

 

 

そう思って、まず昔書いた文章を読み返してみることにしました。

 

 

 

エブリスタには、2023年に投稿したエッセイが13本残っていました。

 

 

 

その中に、

 

 

 

『地球平和への探求』

 

 

 

という、なんとも大仰なタイトルのエッセイがあります。

 

 

 

これは、通信制大学で「平和学」という科目を履修した時に読んだ本の題名を、そのままタイトルにしたものです。

 

 

 

レポートを書くためにかなり読み込んだ本で、そこから戦争や平和について考えたことを書いていました。

 

 

 

でも今回読み返してみると、そこには歴史についての私の考えだけではなく、母や父から受け取った昔の話が、いくつも残っていました。

 

 

 

「日本はもっと大きかったんだよ」

 

 

私がまだ小学校低学年だった頃、家の襖に世界地図が貼ってありました。

 

 

 

それを見ながら母が、

 

 

 

「日本はもっと大きかったんだよ」

 

 

 

と言ったことがあります。

 

 

 

母が子どもの頃、学校で見ていた地図では、日本の領土を示す赤い色が、今よりずっと広い範囲に塗られていた。

 

 

 

だから大人になっても、東南アジアなどを見ていると、

 

 

 

「なんとなく、ここも日本のような気がする」

 

 

 

そんなことを言っていました。

 

 

 

母は昭和一桁生まれです。

 

 

 

戦時中はまだ子どもでした。

 

 

 

登校途中に空襲警報が鳴り、そのまま家へ帰ったこと。

 

 

 

食べ物がなくなってくると、家の周りだけでなく道路の脇まで、土があれば何かを植えたこと。

 

 

 

サツマイモは、芋よりもつるの方をよく食べたこと。

 

 

 

「あんまり勉強しないで卒業してしまった世代なのよ」

 

 

 

とも言っていました。

 

 

 

そんな話を、私は特別な「戦争体験」として聞いていたわけではありません。

 

 

 

母の昔話の一つとして聞いていました。

 

 

 

機銃掃射に追いかけられた叔父

 

 

母から何度も聞いた話の中に、叔父が機銃掃射に追いかけられたという話があります。

 

 

 

まだ小学生だった叔父が、米軍機に追われ、走って逃げて、田んぼの脇に掘られた防空壕へ転がり込んだ。

 

 

 

母はこの話を、それほど悲壮感もなく、

どちらかというと面白おかしく話していました。

 

 

 

だから私も、

 

 

 

「叔父さん、危なかったんだね」

 

 

 

くらいにしか思っていなかったように思います。

 

 

 

ところが『地球平和への探求』を書く時、

「機銃掃射」というものを改めて調べました。

 

 

 

そして初めて、

 

 

 

「これ、ものすごく怖い話だったんじゃないの?」

 

 

 

と思ったのです。

 

 

 

子どもの頃から何度も聞いていた話なのに。

 

 

 

なぜ母は、あんなふうに面白おかしく話したのでしょう。

 

 

 

無事だったから、後になれば笑い話にできたのでしょうか。

 

 

 

それとも、母たちにとって戦争とは、

そんな出来事さえ日常の中にあった時代だったのでしょうか。

 

 

 

今となっては分かりません。

 

 

 

話した母、話さなかった父

 

 

父も昭和一桁生まれです。

 

 

 

東京に住んでいて、学童疎開に参加しなかったので、空襲も経験しているはずです。

 

 

 

けれど、父から戦争中の話を聞いた記憶はほとんどありません。

 

 

 

父方の祖母が、

 

 

 

「位牌だけ風呂敷にくるんで、近くの墓地に逃げた」

 

 

 

と話していたことを覚えているくらいです。

 

 

 

なぜ父は話さなかったのでしょう。

 

 

 

話したくなかったのか。

 

 

 

わざわざ子どもに話すようなことではないと思っていたのか。

 

 

 

それとも、私が聞かなかっただけなのか。

 

 

 

共に他界した今となっては、もう確かめることはできません。

 

 

 

母は話した。父は話さなかった。

 

 

 

そのことも含めて、私が受け取った家族の記憶なのだと思います。

 

 

 

長男を送り出す

 

 

母の一番上の兄には、戦争末期に召集令状が来ました。

 

 

 

南方へ送られる予定だったそうですが、

四国か九州あたりまで行ったところで終戦。

 

 

 

伯父は後になって、

 

 

 

「防空壕掘っているうちに終わった。もう少し早く召集されるか、戦争が長引いていたら、フィリピン辺りで死んでたんだろうな」

 

 

 

と話していました。

 

 

 

長男を送り出した祖父母は、その心労から二人とも胃を悪くして寝込んでしまったそうです。

 

 

 

この話を考える時、私は自分の長男を家から送り出した日のことを思い出します。

 

 

 

我が家の長男は、中学を卒業して広島にある自衛隊の学校へ入りました。

 

 

 

送り出した日のことは、今でも忘れません。

 

 

 

もちろん、戦争へ送り出したわけではありません。

 

 

 

学校へ行くために家を出ただけです。

 

 

 

それなのに私は、その後一年くらい、心にぽっかり穴が開いたような気持ちでいました。

 

 

 

平和な時代に学校へ送り出しただけでも、

私はこんなだった。

 

 

 

それなら、戦争へ長男を送り出した祖父母は、どんな気持ちだったのだろう。

 

 

 

自分が親になったことで、昔聞いた話が、

それまでとは少し違って見えるようになりました。

 

 

 

事実は変わらなくても、見方は変わる

 

 

昔の文章を読み返していると、今の私とは考え方が違うところもあります。

 

 

 

私はもともと、どちらかといえば右寄りの歴史の見方をしていたのだと思います。

 

 

 

2005年のブログを遡ってみると、上坂冬子さんの『日本はそんなに悪い国なのか』を読んだ感想が残っていました。

 

 

 

『冬のソナタ』をきっかけに、それまでほとんど知らなかった韓国に興味を持ち、図書館で本を借りて読むようになりました。

 

 

 

韓国を知ろうとするうちに日本統治時代へ関心が広がり、日本の近現代史についても、いろいろな本を読み、人の話を聞くようになりました。

 

 

 

「日本は本当に、そんなに悪い国だったのだろうか」

 

 

 

そう考えていた時期があります。

 

 

 

それも今考えると、家族の記憶と無関係ではなかったのかもしれません。

 

 

 

「日本がアジアを侵略し、日本人が酷いことをした」と聞けば、それをしたのは自分の祖父たちの世代でもある。

 

 

 

私の知っている祖父たちが、そんな人たちだったとは思いたくない。

 

 

 

そんな気持ちもあったのだと思います。

 

 

 

けれど、その後もいろいろな人の話を聞き、本を読むうちに、歴史の見え方は少しずつ変わってきました。

 

 

 

一年ほど前には、「十五年戦争」という歴史の捉え方を初めて知りました。

 

 

 

満洲事変から日中戦争、そしてアジア・太平洋戦争までを、一続きの戦争として見る。

 

 

 

そんな見方が、特定の偏った人だけが唱えているものではなく、大学の教養課程の授業書として書かれたものが一般向けの本にもなっていると知ったことにも驚きました。

 

 

 

そして今年、もう一つ知ったことがあります。

 

 

 

私はずっと、8月15日が「戦争が終わった日」だと思っていました。

 

 

 

日本では8月15日を「終戦の日」として記憶しています。

 

 

 

けれど、日本が降伏文書に署名したのは9月2日。

 

 

 

戦争について長いこと興味を持ってきたつもりなのに、知らないことがまだまだありました。

 

 

 

起きた事実は変わらなくても、それをどう見るかは変わる。

 

 

 

そして、自分自身の見方だって変わります。

 

 

 

昔の私には、昔の私なりにそう考えた背景がありました。

 

 

 

だから昔の文章を、今の自分に合わせてなかったことにしてしまおうとは思いません。

 

 

 

「あの時の私は、こう考えていた」

 

 

 

それも私の歴史だからです。

 

 

 

私で途切れさせたくない

 

 

ニュースなどで、戦争を体験した人が少なくなり、

 

 

 

「戦争の記憶を語り継ぐ」

 

 

 

という言葉を聞くたびに、以前から思っていたことがあります。

 

 

 

「私で途切れさせてはいけないよな」

 

 

 

私は戦争を知りません。

 

 

 

でも、戦争を知っている人たちから直接話を聞くことができた世代です。

 

 

 

私が子どもだった昭和40年代は、今ほど豊かな時代ではありませんでした。

 

 

 

だから母から戦争中の食糧難の話を聞いても、まるで別世界のおとぎ話のようには感じなかった気がします。

 

 

 

でも、私の子どもたちは違います。

 

 

 

母が子どもだった戦争中の暮らしは、もうずいぶん遠い世界の話になっているでしょう。

 

 

 

だから書いて置きたい。

 

 

 

母から聞いたことは、聞いたこととして。

 

 

 

父から聞けなかったことは、聞けなかったこととして。

 

 

 

その話を昔の私がどう受け取ったのか。

 

 

 

その後何を知り、見方がどう変わったのか。

 

 

 

そして今の私はどう考えているのか。

 

 

 

それを全部、無理に一つの「正解」にまとめずに残しておきたいと思います。

 

 

 

子どもたちが、いつか私の書いたものを手に取ってくれるかどうかは分かりません。

 

 

 

読まないかもしれません。

 

 

 

それでもいい。

 

 

 

母から私へ渡された話が、私のところで消えてしまわないように。

 

 

 

いつか誰かが知りたいと思った時、

 

 

 

「ここにあるよ」

 

 

 

と言えるように。

 

 

 

それが、今の私が『自分史』を編んでみようと思う理由の一つなのかもしれません。🍀

 

#自分史

#戦争の記憶

 

 

海の向こうから見た日本古代史――百済の都・公州を歩く

11年前に書きかけた小説『韓の国の人』の続きを、AIと一緒に書いている。

 

 

 

主人公の響子は、日本の古代史が好きな50代半ばの女性。

 

 

 

古代の日本と朝鮮半島がどうつながっていたのか、その痕跡を自分の目で見てみたい。

 

 

 

そんな思いで韓国を旅している。

 

 

 

ソウルで漢城百済博物館や夢村土城を見た響子は、次に百済の古都・**公州(コンジュ)**へ向かう。

 

 

 

小説を書くために、公州について調べ始めた。

 

 

 

といっても、私自身が公州へ行ったわけではない。

 

 

 

AIから教えてもらった情報を確かめ、史跡や出土品の資料を眺めながら、響子と一緒に公州を歩いてみる空想旅だ。

 

 

 

ところが――。

 

 

 

調べれば調べるほど、主人公より作者の私の方が面白くなってきてしまった。

 

 

 

百済の都・公州を歩く

※史跡・出土品などの資料を参考にAIで作成したイメージイラストです。

 

公州は、475年から538年まで百済の都が置かれた町だ。

 

 

 

当時は**熊津(ウンジン)**と呼ばれていた。

 

 

 

高句麗の攻撃によって漢城を失った百済が都を移し、再び国を立て直していった場所でもある。

 

 

 

現在も、公山城や王陵など、熊津時代の遺跡が町の中に残っている。

 

 

 

資料を眺めていて思った。

 

 

 

「日本でいえば、飛鳥のようなところなのかな?」

 

 

 

もちろん時代も町の成り立ちも同じではない。

 

 

 

でも、現代の人たちが普通に暮らしている町の中に、1500年前の都の跡が重なっている。

 

 

 

そう思うと、急に歩いてみたくなった。

 

 

 

響子が歩くなら、

 

 

 

武寧王陵・王陵園 → 国立公州博物館 → 公山城。

 

 

 

車がなくても、歴史を感じながら歩ける散歩コースだそうだ。

 

 

 

そして、そのコースを調べていて、私は一人の王に出会った。

 

 

 

「武寧王って誰?」

 

 

※資料を参考にAIで作成したイメージイラストです。

 

 

武寧王(ぶねいおう)。

 

 

 

百済の第25代の王で、501年から523年まで在位した人物だ。

 

 

 

私は武寧王を知らなかった。

 

 

 

名前も聞いたことがあったかどうか定かではない。たぶん、今回調べて初めて知った。

 

 

 

1971年に発見された武寧王陵から出てきた墓誌を見た。

 

 

 

ん?

 

 

 

「百済斯麻王」

 

 

 

と刻まれている。

 

 

 

斯麻王(しまおう)とは、武寧王のことだそうだ。

 

 

 

武寧王は「斯麻(しま)」という名でも呼ばれていたのだという。

 

 

 

墓誌には、百済の斯麻王が62歳で523年に亡くなったことが記されている。

 

 

 

王自身の名と亡くなった年月日が記されていたため、この墓に葬られていた人物が武寧王だと確認できた。

 

 

 

※実物の墓誌などの資料を参考にAIで作成したイメージイラストです。

斯麻。

 

 

 

「しま?」

 

 

 

どうして「斯麻」なのだろう。

気になった。

 

 

 

ここでスマホを取り出す響子さんの姿が浮かんだ。

 

 

 

「武寧王 斯麻王」

 

 

 

と検索してみる。

 

 

 

すると――。

 

 

 

出てきたのは、なんと『日本書紀』だった。

 

 

 

「え? 日本書紀?」

 

 

 

えっ、武寧王って日本で生まれたの?

 

 

『日本書紀』雄略天皇5年条には、百済王の弟・昆支が倭へ向かう際、王の婦人の一人を伴い、その女性が途中の**各羅島(かからのしま)**で王子を産んだことが記されている。

 

 

 

その子は**嶋君(しまのきみ)**と名づけられ、百済へ送り返された。

 

 

 

そして、その人物が後の武寧王だという。

 

 

 

武寧王陵の墓誌に刻まれた「斯麻」。

 

 

 

『日本書紀』に記された「嶋君」。

 

 

 

2015年には九州国立博物館の特別展

「古代日本と百済の交流――大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」でも、この二つを結びつけて紹介していた。

 

 

 

ええっ。

 

 

 

百済の王様が、日本で生まれている?

 

 

 

百済の王様を調べていたら、向こうから日本史が現れた。

 

 

 

これは面白い。

 

 

 

ところが、ここでまた一つ引っかかった。

 

 

 

武寧王の母は、すでに臨月だったという。

 

 

 

臨月の妃を、なぜ海を渡って倭へ連れて行こうとしたのだろう?

 

 

 

1500年前の航海だ。

 

 

 

何か事情があったのだろうか。

 

 

 

調べれば、いろいろな説が出てくるのかもしれない。

 

 

 

でも、響子さんは学者ではない。

 

 

 

もちろん私も学者ではない。

 

 

 

分からないことを、無理に答えまで持っていかなくてもいい。

 

 

 

「ここ、なんかあるなぁ」

 

 

 

とりあえず、そこに小さな札を立てておく。

 

 

 

いつか別のことを調べている時に、その札と何かがつながるかもしれない。

 

 

 

歴史を調べる楽しさって、案外そういうところにもある。

 

 

 

王のお墓から出てきたものを見に行く

 

 

次は、国立公州博物館へ。

 

 

 

国立公州博物館の1階には「熊津百済室」があり、武寧王陵から出土した主要な遺物が展示されている。

 

 

 

金製の冠飾や装身具、鏡。

 

 

 

資料を見ているだけでも、1500年前の百済王室の華やかさが伝わってくる。

 

 

 

※実物の出土品などの資料を参考にAIで作成したイメージイラストです。

 

 

そして、ここでも日本につながるものがあった。

 

 

 

**獣帯鏡(じゅうたいきょう)**と呼ばれる青銅の鏡だ。

 

 

 

鏡の裏側には、獣などを表した文様が刻まれている。

 

 

 

驚いたことに、武寧王陵と滋賀県の三上山下古墳から出土した3面の獣帯鏡は、同じ型から作られたものだという。

 

 

 

※実物の出土品などの資料を参考に、位置関係を分かりやすくするためAIで作成したイメージイラストです。

 

 

百済の王のお墓と、日本の古墳から、同じ型で作られた鏡が出てくる。

 

 

 

どうして?

 

 

 

また一つ、札を立てたくなる。

 

 

 

さらに武寧王陵には、中国南朝との交流を示す要素も見られるという。

 

 

 

中国がある。

 

 

 

百済がある。

 

 

 

そして倭がある。

 

 

 

物は海を渡る。

 

 

 

人も海を渡る。

 

 

 

技術も文化も海を渡る。

 

 

 

地図の上では別々に見えていた場所が、少しずつ線でつながり始めた。

 

 

 

そういえば、豊璋も日本にいた

 

 

そこで、ふと思い出した。

 

 

 

「そういえば、豊璋も日本にいた」

 

 

 

**豊璋(ほうしょう)**は、武寧王から百年以上後の百済王族だ。

 

 

 

長く倭に滞在し、百済が唐・新羅によって滅ぼされた後、百済復興運動のために海を渡って戻っている。

 

 

 

そして663年、倭は百済復興を支援するため大軍を送り、唐・新羅連合軍と戦った。

 

 

 

白村江(はくすきのえ)の戦いだ。

 

 

 

昔、学校ではそう習った。

 

 

 

ところが今回調べていると、九州国立博物館では「白村江(はくそんこう)」と読んでいることに気づいた。

 

 

 

同じ漢字なのに、読み方が違う。

 

 

 

そういえば今回も、私は最初、

 

 

 

「公州って、こうしゅう?」

 

 

 

と思っていた。

 

 

 

韓国の町として読むと、公州(コンジュ)。

 

 

 

名前の読み方一つでも、どこに立って見ているのかで変わってくる。

 

 

 

それがなんだか、今回の空想旅そのもののようで面白い。

 

 

 

そして私は、白村江の戦いについて以前から一つ疑問があった。

 

 

 

どうして倭は、海を渡ってまで百済を助けに行ったのだろう。

 

 

 

もちろん、そこには唐・新羅をめぐる東アジア情勢や、倭自身の安全保障など、いろいろな事情があったのだろう。

 

 

 

でも武寧王を知り、豊璋を思い出し、百済と倭の間を行き来した人や物を見ていると、少し違う疑問が浮かんできた。

 

 

 

もしかして私は、百済と倭を、

 

 

 

「別々の二つの国」

 

 

 

として考えすぎていたのではないだろうか。

 

 

 

今の国境線で、1500年前を見ていいんだろうか?

 

 

 

今の地図を見れば、日本と韓国の間には国境がある。

 

 

 

ここからここまで韓国。

 

 

 

海を渡ったら日本。

 

 

 

私たちは、そんな地図を当たり前のものとして見ている。

 

 

 

でも、1500年前の人たちも同じ感覚だったのだろうか。

 

 

 

昔、放送大学で歴史を学んでいた時、

 

 

 

「東アジアの中の日本」

 

 

 

という見方を知った。

 

 

 

日本の中だけを見て日本史を考えるのではなく、中国や朝鮮半島を含めた東アジアの中に日本列島を置いてみる。

 

 

 

また、モンゴル史を専門とする宮脇淳子先生の話を聞いていると、さらに視点を遠くへ置いて、中国の向こう側から東アジアを見ることで、これまでとは違う歴史の姿が見えてくることがある。

 

 

 

見る場所を変えると、同じ歴史でも違って見える。

 

 

 

それなら、日本から百済を見るだけではなく、

 

 

 

百済の都から、日本列島の方を見てみたらどうなるのだろう。

 

 

 

武寧王は日本で生まれたと『日本書紀』に記されている。

 

 

 

豊璋は倭にいた。

 

 

 

百済と倭の間を、人が行き来している。

 

 

 

物も技術も渡っている。

 

 

 

だからといって、百済と倭の間に境がなかったということではない。

 

 

 

争いもあれば、それぞれの政治的な思惑もあったはずだ。

 

 

 

でも、

 

 

 

今の国境線の感覚で、1500年前を見ていいんだろうか?

 

 

 

そんな疑問が残った。

 

 

 

答えは、まだ分からない。

 

 

 

でも、分からないから面白い。

 

 

 

公山城から、海の向こうを考える

 

 

公州散歩の最後は、**公山城(コンサンソン)**へ。

 

 

 

公山城は熊津時代の百済王都を守った城で、城壁からは現在の公州の町と**錦江(クムガン)**を眺めることができる。

 

 

 

1500年前、この川を船が行き来していた。

 

 

 

錦江を下れば海へ出る。

 

 

 

その海の向こうには、倭がある。

 

 

 

※史跡などの資料を参考にAIで作成したイメージイラストです。

 

 

そう考えていて、昔どこかで読んだ言葉を思い出した。

 

 

 

海は、人と人をつなぐもの。

 

 

 

正確にどこで読んだのかは、もう覚えていない。

 

 

 

知識としては、以前からあったのかもしれない。

 

 

 

けれど、公州から武寧王をたどり、倭との間を行き来した人や物を見ていると、その言葉が急に実感をもって迫ってきた。

 

 

 

「ああ、そういうことなのか」

 

 

 

ようやく腑に落ちた気がした。

 

 

 

今の私たちは、海を見ると、その向こうに国境を思い浮かべる。

 

 

 

でも1500年前の人たちにとって海は、人が行き、物が行き、文化が行き交う道でもあったのだろう。

 

 

 

日本から百済を見る。

 

 

 

百済から倭を見る。

 

 

 

立つ場所を変えるだけで、知っているつもりだった日本古代史が、少し違って見えてくる。

 

 

 

だから、この公州散歩に名前をつけるなら、

 

 

 

「海の向こうから見た日本古代史」

 

 

 

なのだと思う。

 

 

 

そして響子さんは、もっと南へ

 

 

ところが、響子の旅は公州では終わらない。

 

 

 

次に向かうのは、さらに南。

 

 

 

そこには――

 

 

 

前方後円墳がある。

 

 

 

日本の古墳といえば真っ先に思い浮かぶ、

あの鍵穴のような形のお墓が、朝鮮半島南西部にもあるという。

 

 

 

「じゃあ、それは誰のお墓なの?」

 

 

 

また疑問が一つ増えてしまった。

 

 

 

小説の続きを書くために、公州を調べ始めた。

 

 

 

なのに気づけば、私まで1500年前の東アジアを歩いている。

 

 

 

どうやら響子さんの旅は、

 

 

 

作者まで連れて行くつもりらしい。

 

 

#疑問が学びに変わるとき

#日本古代史

#百済

#武寧王

#公州

 

 

駆けつけ『大地讃頌』⁉️

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YouTubeを開いたらこんな↑動画が。

 

コメント欄には、

「中学で歌った」

「懐かしい」

の声多数。

 

中学校の合唱コンクールの定番曲ですものね。

私も、中学校でも歌ったし

子どもたちも中学生の時歌ってた。

地域のママさんコーラスのサークルでも歌ったから

少し練習すれば歌えるかも~😁

 

それにしても、ぶっつけ本番ではないですよね。

普段から歌っている方々でしょうが、

リハぐらいはやってますよね。

 

当地に引っ越してから歌ってないので、

(引っ越し前も準備があるから早めに止めたし)

もう10年歌ってない。

 

また、歌えるだろうか。

こういう動画をみると、

また合唱がしたくなる。

ラジオ体操第三⁉️

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さて、午後の体操、と思いYouTubeを開くと、↑の

動画がトップに。

 

ラジオ体操第三?なんじゃ、そりゃ?

 

動画を再生してやってみた。

第1、第2とはずいぶん違う感じ。

でも、面白い。

 

ググってみると、戦前には第三まであって、

戦後GHQに禁止されて後に第1と第2は復刻して今日まで続いてるけど、

第3だけが禁止されていたようだ。

 

それを、2013年に龍谷大学の教授らが当時の文献を元に

復刻したそうだ。

全然知らなんだ。

 

みんなの体操は、動きがゆっくりで熟年層向けに新たに作った感があるけど、

ラジオ体操第三は結構動きが早くて

子どもたちでも楽しくやれる感じがする。

 

日替わりでやったり、

午前と午後で変えたり

楽しみながら体操が続けられそう✌

㊗️ はてなブログ2周年🎉🎊

はてなブログからこんな↑お知らせが来た。

 

はてなブログを開設して2周年ですって。

そうなんだ。

覚えてないてない💧

 

そもそも、なんではてなブログを立ち上げようとしたのか、

覚えてないんですよね。

 

すでに、goo、アメブロライブドア(他にもあったけど、放置しすぎてログイン出来なくなったのも)にブログを持っていて、しばらく放置していたので

まとめたい、とは思っていた。

 

でも、既にあるところではなく、

新たにはてなブログを立ち上げる理由があったはずなんだけど…😁

 

gooブログの閉鎖に伴い記事を引っ越したので、

2005年からの記事があります。

はてなブログで一番始めに書いたのは、

たぶん、これ↓

 

始まりは… - 旭陽の部屋

 

書きかけだったり、中味までは引っ越せなくて意味不明の記事もあります。

整理出来るかどうか分かりません😖

ご容赦を🙏

 

 

 

ハッピーエンドが好き

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まだ、『八月のクリスマス』の痛み(?)から抜け出せない。

物語の続きを妄想してみた。

 

🍀🍀🍀

 

ショーウインドウ 微笑む吾が そこにいる

   笑みを浮かべて 飾ったのかな

 

あの後、彼女は写真店の前で店主が帰るのを待つのだろう。

 

スクーターの音がして、“帰ってきた!”と振り返ると、

それは彼ではなく彼の父親。

 

「寒い中待ってたのかい。お入り。」と

きっと、店の中に誘う。

 

「あの…、おじさんは?いないの?」

 

「ああ、…。

熱いお茶でも淹れるよ。コーヒーの方がいいかな?」

 

「ええ。コーヒーで。

おじいさんは、おじさんのお父さん?」

 

「ああ、そうだよ。

はい、熱いから気を付けて。

お嬢さんが来たら、渡そうと思ってた物があるんだ。

 

これ、うちで撮った写真と息子からお嬢さんへの手紙。

 

息子が入院している時、写真を受け取りに来たんじゃないかと

気にしてたんだ。

渡し損なったって。

写真とその手紙一緒にしてあったから、お嬢さんに渡すつもりだったんだろうと思って。」

 

「おじさんは、まだ入院しているの?」

 

「いや。」

 

「じゃ、お家で寝てるのね?

お見舞いに行ってもいい?

私、お休みを取ってきたから、今日は時間があるの。」

 

「店の裏が住まいになってるんだ。

こっちからお上がり。

線香を上げてやってくれるかな。」

 

線香?と思いながらおじいさんに誘われて部屋にあがると、

おじさんの写真が飾ってあった。

 

遺影?おじさんが、微笑んでいた。

 

「良く撮れているだろう?

自分で撮ったんだ。」

 

「いつ…死んじゃったの?おじさん。

ずっと、病気だったの?

私、何も知らなくて…。」

 

「10月にね。

長く患っていて、もう長くない事も分かっていたんだ。

でも、お嬢さんにはなにも話してなかったんだね。

お嬢さんには、自分は生きていて写真店で働いていると

そう思っていて欲しかったのかな。

息子は、そういうやつだったから。」

 

「おじいさん、私ね、おじさんのこと、好きだったの。」

 

🍀🍀🍀

 

店主の死を聞いて、おどろくだろうけれど、

嘆き悲しんで欲しくはない。

 

手紙の返事を読んで、自分が愛されている事を知り、

彼も愛を抱いたまま逝ったことを知るのだろう。

 

私は、ハッピーエンドが好きだ。

たとえ主人公が死んでしまうお話でも、

希望があれば救われる。

 

どうにも八方塞がりで、絶望のまま死ぬことだけしか道がなく、

主要人物がみな死んで行く、なんて物語は嫌い。

どんな感動的な美しい物語でも、2度と見ることはない。

 

『いつかの君に』は、絶望の物語かと思いきや、

最後の祈りが届いて、幸せな物語の続きを予感させる結末。

こういう結末が大好きなのです。