
2026年9月15日
今日の57577のお題は、「ジャム」。
冷凍庫には、夫の菜園で採れたベリーたちが、
「そろそろジャムにしてちょうだいな」
と言わんばかりに場所を占領している。
そこから「jam」という言葉を転がしてみたら、traffic jam、そして paper jam へ。
すると突然、気分は昭和のお役所へ飛んでいった。
paper jamで蘇った昭和の職場
私がお役所で普通の事務をしていた頃、コピー機は「コピー機」ではなく、もっぱらゼロックスと呼んでいた。
「ゼロックスお願い」
そんなふうに頼まれてコピーを取る。
そして、よく紙が詰まる。
蓋を開けて、どこに紙が引っかかっているのか探して、引っ張り出す。
時にはトナーがピッと飛び散る。
まだワープロも普及していない。
ペン字の手書き、和文タイプ、ゴム印。
電話はダイヤル式。
青焼きもまだ現役で、これが意外ときれいに取るのが難しかった。
コピーは青焼きに対して白焼きとも呼ばれていた。
そして、お役所といえば起案文書。
「〇〇してよろしいか」
という文書を作り、関係部署を回して決裁を仰ぐ。
1枚目には部長、課長など回覧先が並び、読んだ人が次々とハンコを押していく。重要な文書になると、表面はハンコだらけ。
書類を綴じるのは、紙をこより状にしたような綴り紐。
急ぎなら、起案者本人が文書を持って決裁をもらいに行く。
今思えば、なんともアナログな世界だった。
今日の一首は、食べるジャムではなく紙詰まり
そんな記憶から、今日の一首。
> paper jam 昭和の機器は詰まりがち
紙を引き抜くトナー飛び散る
冷凍庫いっぱいのベリーから始まったのに、詠んだのは食べるジャムではなくpaper jam。
でも今日はちゃんと、本物のジャムも作った。
四男が休みで家にいたので「ベリーを煮て」のリクエスト。まずラズベリーを煮て、それからブラックベリー。
冷凍庫が塞がっていると、そのうち夫から、
「ビール冷やせないんだけど」
と苦情が出そうだからちょうど良い😁
ベリーで冷凍庫がjam状態。
そのjamを解消するためにjamを作った。
なかなかよくできたお題だった🤣
午後は2011年3月へ
小説の部屋では、『飛び立つ前の雛たち』を書くために、旧gooブログに残っていた2011年3月11日以降の記事を開いてみた。
震災のことは、
「もっと記録しておけばよかった」
と思っていた。
ところが開いてみたら、2011年だけで499記事。3月だけでも42記事あった。
当時はブログそのものを頻繁に開いて投稿していたわけではない。
毎日使っていたのは、携帯からのTwitter。
Twitterでつぶやいたものが翌日、自動的にブログへまとめて投稿されるサービスを使っていた。
だから私自身には、「震災の記録を残している」意識があったのかどうか、
もう覚えていない。
けれど15年後に開いてみたら、そこには震災直後の暮らしが思いのほか細かく残っていた。
水、食べ物、昼寝、歌――少しずつ戻った日常
3月11日から31日までを追ってみると、記憶だけでは分からなかったことがたくさんあった。
給水車からもらえた水は、やかんの3分の2。
水がなくて洗えなかった食器。
近所の人からもらった冷凍食品。
子どもたちの水汲み。
一週間ぶりの洗濯とお風呂。
なかなか手に入らなかった豆腐や納豆。
ガソリンの整理券。
知らない人同士でも自然に交わすようになった挨拶。
そして3月23日、震災後初めての昼寝。
普段、子どもたちから、
「おかんは出掛けていないか、寝てる」
と思われていた私が🤣、二週間近く昼寝をしていなかった。
25日、49歳の誕生日にはケーキを買い、
「生きていて、良かった」
と書いていた。
26日には生演奏を聴いて、
「心が洗われました」
そして、
「2週間ぶりで、少し歌いました。
早く、皆で歌いたい!」
とも。
生活が完全に元通りになってから、
歌や楽しみが戻ったわけではなかった。
まだ余震もある。物も足りない。
それでも人には、食べることや水だけではなく、歌ったり、楽しんだりするものが必要だった。
後にコーラスの先生が話した、
「コーラスの指導がなかったら、私は立ち直れなかったかもしれない」
という言葉にもつながっていく。
『飛び立つ前の雛たち』に出てくる「人はパンのみに生くるにあらず」というテーマも、もしかすると、こんな2011年の体験の中から生まれていたのかもしれない。
短歌が途切れていた10日間
もう一つ興味深かったのは短歌。
3月14日、給水に並んで、
> 並び待ち やっと順番 きたものの
給水されたは やかん2/3
と詠んでいた。
ところが、その後およそ10日間、短歌がない。
その間のTwitterには、水汲み、買い出し、灯油、余震……暮らしの記録がびっしり残っている。
そして23日頃から昼寝が戻り、25日から短歌も戻り、26日には歌声も戻る。
理由はもう分からない。
ただ、張り詰めて暮らしていた時期と、短歌を詠んでいない時期が重なっていた。
これも15年前の自分が残してくれた記録だった。
**「2011年3月・震災詠12首」**
2011年3月14日
> 並び待ち やっと順番 きたものの
給水されたは やかん2/3
2011年3月25日「誕生日」
> 四十九の 歳を重ねて 今日の
私があるを ただありがたく
> 震災で いくつもの命 失われ
悲しみの中 でも、たちあがる
> 避難所の ただひたすらに 耐え忍ぶ
傷つきし人を 早く、早く
2011年3月25日のつぶやき
> 並ぶのに 慣れてしまった 日常に
うんざりでもなく 楽しんでいる
> あの日から あっという間に 2週間
ろうそくの灯が 昨日のようで
2011年3月28日「笑顔のちから」
> 太陽が 今日もまぶしく 輝いて
そのように吾も 笑っていよう
> 「おはよう」と あなたの笑顔 うれしくて
私も笑顔 温かくなる
2011年3月28日「今を生ききる」
bochi-denさんの「流れる涙は流れるままに」に寄せて
> 生きている ただそれだけで すばらしい
それを信じて 今を生ききる
> この先は つらいことだけ かもしれない
でもいつの日か 笑う日が来る
2011年3月30日「春の便り」
> さくら咲く うれしい便り かの地から
春はそこまで やって来ている
> 傷ついて 冷えてしまった 心まで
とかしておくれ やさしい色で
Twitterを始めたきっかけまで遡った
では、そもそもどうして私はTwitterをやっていたんだろう?
記憶を辿ると、2010年のドラマ**
『素直になれなくて』**に行き着いた。
北川悦吏子さんの作品は『ビューティフルライフ』で知って、しばらく追いかけていた。
『素直になれなくて』にはJYJジェジュンも出演していたので見ていた。
Twitterから人と人がつながっていく物語。
それに影響されて、私もTwitterを始めたのだと思う。
北川悦吏子さんは私と同い年。
なのに文章が若い。
ノベライズを読んだら、ごく普通に、
「マジ?」
なんて会話が出てくる。
当時の私は「マジ」なんて使ったことがなかったので、
「マジ? マジ⁉️」
となった🤣
私は昔から「会話できる場所」が好きだった
あの頃のTwitterは、今のような「不特定多数に向かって発信する場所」という感覚とは少し違った。
フォローし合った人たちと、毎日のように言葉を交わす。
誰かがつぶやけば誰かが返す。
そんな会話する場所だった。
考えてみれば、二次小説を長く書き続けられたのも、仲間がいたからという部分が大きかった。
掲示板で物語を書く。
ブログでつながる。
Twitterでつぶやき合う。
そして今は、AIと話す。
道具はずいぶん変わった。
でも私は昔から、一方的に何かを発信するより、自分が言葉を投げたら、向こうからも言葉が返ってくる場所が好きだったのかもしれない。
今日一日を振り返ると、朝は「ジャム」という一語から昭和のお役所へ。
午後は小説から2011年3月へ。
そして最後は、Twitterを始めた2010年まで遡った。
冷凍庫のラズベリーから始まった一日が、まさかここまで行くとは。
今日も二坑同時操業。しかも両方とも、かなり深く掘りました⛏️⛏️🤣
でも一番うれしかったのは、「もっと残しておけばよかった」と思っていた震災の日々が、実はちゃんと残っていたこと。
意識して残した記録ではなかったからこそ、そこには当時の私の普通の暮らしがあった。
今日見つけたのは、震災の記録だけではなく、2011年を生きていた私の日常だった。
また明日👋😊
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