
――天智・天武の母ではなく、統治者として読み直す
私が学校で習った飛鳥時代の主人公は、中大兄皇子でした。
私の頃は「乙巳の変」という名称ではなく、蘇我入鹿を討った事件も含めて「大化の改新」と習ったように記憶しています。
横暴な蘇我氏を倒し、中臣鎌足とともに新しい国づくりを始めた若き英雄。それが中大兄皇子でした。
一方、そのとき天皇だった皇極天皇、後の斉明天皇について覚えていたのは、
「天智天皇と天武天皇という、二人の優秀な息子を産んだ女性」
ということくらいでした。
歴史小説などでも、中大兄皇子が政治の表舞台に立ち、母である斉明天皇は、その後ろにいる女性として描かれることが多かったように思います。
ところが、あらためて『日本書紀』の記事を見てみると、そこには「偉大な息子を産んだ母」だけでは説明できない斉明天皇の姿があります。
『日本書紀』に記された斉明天皇
斉明天皇は、もとは皇極天皇として即位しました。
『日本書紀』には、大干ばつの際、
南淵の河上で自ら四方を拝み、
雨を降らせたという記事があります。
この話からは、祭祀を担う女性天皇の姿が浮かびます。
しかし、斉明天皇は「祈る女帝」だっただけではありません。
宮殿や水路、苑池などの大規模な工事を進め、須弥山をかたどった石造物を設け、外国から来た人々をもてなしました。蝦夷や粛慎(しゅくしん)に関わる外交を進めました。
※粛慎とは、『日本書紀』に登場する北方の人々の呼び名です。北海道や樺太などに暮らした人々との関係が考えられていますが、具体的にどの集団を指すのかは、現在も議論があります。
百済が滅亡すると、その救援のため、自ら皇族や軍勢とともに九州まで移動しています。
高齢の女性天皇が都にとどまらず、
軍事・外交の前線に近い筑紫まで赴き、そこで亡くなったのです。
ここから見えるのは、息子たちに政治を任せた母ではなく、祭祀、造営、外交、軍事に関わった行動的な統治者です。
ただし、『日本書紀』が斉明天皇を一貫して高く評価しているわけではありません。
大規模な水路工事は「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と批判的に記され、水時計の製作などは中大兄皇子の業績として書かれています。
斉明天皇の時代は、天皇だけでなく、中大兄皇子や大海人皇子、群臣たちが、それぞれ大きな役割を担った時代だったのでしょう。
皇極・孝徳・斉明・天智という複雑な流れ
当時の皇位の流れを並べると、次のようになります。
- 皇極天皇 642~645年
- 孝徳天皇 645~654年
- 斉明天皇 655~661年
- 中大兄皇子の称制 661~668年
- 天智天皇 668~671年
皇極天皇と斉明天皇は、同じ人物です。
645年、皇極天皇が退位したあと、すぐに中大兄皇子が即位したわけではありません。皇位に就いたのは、皇極天皇の弟である孝徳天皇でした。
そして孝徳天皇が亡くなると、皇極前天皇が斉明天皇として再び即位します。
さらに重要なのは、斉明天皇が661年に亡くなったあとも、中大兄皇子はすぐには即位しなかったことです。
中大兄皇子は約六年半、天皇の位を空けたまま政治を行いました。これを一般に「称制」と呼びます。
正式に天智天皇として即位したのは668年。亡くなったのは671年末なので、正式な在位期間は約四年にすぎません。
この経過を見ると、
「斉明天皇は、中大兄皇子が天皇になるまで皇位を預かった母だった」
という説明だけでは、どうにも収まりません。
中大兄皇子には、皇極天皇が退位した645年と、斉明天皇が亡くなった661年の二度、即位できそうな機会がありました。しかし一度目は孝徳天皇が即位し、二度目は中大兄皇子自身が称制にとどまっています。
なぜ長く即位しなかったのか、明確な答えは残されていません。
百済救援と白村江での敗戦、唐・新羅への警戒、防衛施設の建設、近江への遷都など、国の存立に関わる問題が続いたためとも考えられます。
しかし、当時の皇位継承が、現在の私たちが考えるほど単純ではなかったことだけは確かでしょう。
中大兄皇子は本当に「皇太子」だったのか
『日本書紀』は、中大兄皇子を「皇太子」と記しています。
けれども、当時すでに後世の律令制と同じ皇太子制度が確立していたかどうかについては、研究者の間でも議論があります。
『日本書紀』が完成したのは720年です。斉明天皇の時代から約60年後であり、すでに律令国家の制度が整えられた時代でした。
そのため、『日本書紀』の編纂者が、自分たちの時代の制度や言葉を使って、過去の出来事を整理した可能性があります。
7世紀前半には「大兄」や「ひつぎのみこ」と呼ばれる有力な後継候補がいました。しかし、後世の皇太子のように、次の天皇になることが制度上保証されていたとは限りません。
皇太子制度の本格的な成立を、持統天皇11年(697年)に後継者とされた軽皇子、後の文武天皇からと見る説もあります。
中大兄皇子が大きな政治力を持っていたことは確かでしょう。
しかし、
「正式な皇太子として、母である斉明天皇に代わってすべての政治を行っていた」
とまでは断定できません。
後世の皇太子制度をそのまま過去に当てはめると、斉明天皇が名目上の天皇で、中大兄皇子こそが真の統治者だったという物語が、制度上当然のことのように見えてしまいます。
「乙巳の変」という呼び名が問い直す英雄物語
私が学校で習った頃は、645年に蘇我入鹿が殺害された事件も含めて「大化の改新」と呼んでいました。
横暴な蘇我氏を、中大兄皇子と中臣鎌足が倒し、新しい国づくりを始めた――。そこには、悪い権力者を若い英雄たちが討つという、分かりやすい物語がありました。
現在は、宮中で蘇我入鹿が殺害された政変を「乙巳の変」、その後に進められた政治改革を「大化の改新」と分けて考えるようになっています。
しかし、変わったのは名称だけではありません。
古代史研究者の遠山美都男さんは、
『日本書紀』に描かれた乙巳の変の物語そのものを、あらためて検討する必要があると指摘しています。
『日本書紀』が完成したのは720年。
事件から75年ほど後のことです。
遠山さんによれば、『日本書紀』は、
天智天皇の血統と藤原氏が国家形成に大きく貢献したことを示すため、中大兄皇子と中臣鎌足を乙巳の変の中心人物とする「王権神話」を形づくった可能性があります。
もちろん、中大兄皇子と中臣鎌足が政変に加わったことまで否定されるわけではありません。
問題は、二人だけを歴史の主人公とすることで、同じ政治の場にいた皇極天皇や、その後に即位した孝徳天皇の意思と行動が見えなくなってきたことです。
従来、皇極天皇は蘇我入鹿の暗殺を知らされておらず、目の前で事件が起きたことに驚いて退位した、と説明されることがありました。中大兄皇子らに押され、皇位を手放した女性として描かれてきたのです。
これに対して遠山さんは、皇極天皇が自らの判断で弟の軽皇子、後の孝徳天皇に王位を譲った可能性を重視します。王位継承をめぐる争いを抑え、王権の分裂を避けるために、生前譲位という新しい方法を選んだのではないかという見方です。
また、遠山さんは、乙巳の変で若い中大兄皇子だけが中心的な役割を果たしたと見るのではなく、皇極天皇や軽皇子も政変に主体的に関わった可能性を指摘しています。
これは現在の研究者全員に共有された確定的な結論ではありません。乙巳の変を誰が計画し、皇極天皇がどこまで事前に知っていたのかは、今も議論が続いています。
それでも、この研究が示していることは重要です。
私たちが学校で習った「中大兄皇子と中臣鎌足が、横暴な蘇我氏を倒した」という物語は、『日本書紀』が伝える歴史をもとに、後世の教科書が分かりやすく組み立てたものです。
そこからいったん離れてみれば、乙巳の変は、一人の英雄が悪人を討った事件ではなく、皇極天皇、軽皇子、中大兄皇子、古人大兄皇子、蘇我氏や群臣たちが、王位と政治のあり方をめぐって動いた複雑な政変として見えてきます。
「大化の改新」から「乙巳の変」へ。
その呼び名の変化は、単なる用語の言い換えではありません。誰を歴史の主人公としてきたのかを問い直す入り口でもあるのです。
そして皇極天皇を、息子の起こした事件に驚いて退位した母ではなく、王位継承に自ら関与した統治者として見直すことは、後に斉明天皇として再び即位した理由を考える手がかりにもなります。
女性天皇は「中継ぎ」だったのか
歴史学者の義江明子さんは、古代の女性天皇を「男性皇族が即位するまでの中継ぎ」と見る考え方を問い直しています。
義江さんによれば、女帝中継ぎ説は、皇位の男系男子継承が制度化された明治期に生まれ、1960年代には学説として定着しました。
当時は、父から息子へ皇位を伝えることが日本古来の原則であり、女性天皇はそこから外れた例外だと考えられていたのです。
しかし近年は、古代社会では、父方だけでなく母方の血統も、その人の政治的地位を支える重要な要素だったと考えられています。
義江さんは、これを「双系的」な社会と説明します。
そのような社会では、十分な年齢と血統、政治的な経験を持つ女性皇族も、男性と同じように王位を担いうる存在でした。
義江さんは、斉明天皇についても、
いったん退位したあと、実力によって再び皇位に就いた女性として捉えています。
女性天皇を最初から「例外」や「代役」と決めてしまえば、本人が何を考え、何を行ったのかは見えにくくなります。
なぜ斉明天皇は「母」として語られたのか
斉明天皇が、天智天皇と天武天皇の母だったことは事実です。
しかし、後に二人の息子が大きな存在になったため、母の政治活動まで息子たちの物語に吸収されてしまったのではないでしょうか。
中大兄皇子は、後の天智天皇です。
大海人皇子は、壬申の乱に勝利して天武天皇となります。
二人とも日本の国家形成を語るうえで欠かせない天皇です。
その二人の間に立つ斉明天皇は、
「天智・天武という偉大な男性天皇を産んだ母」
として説明されるようになりました。
女性を「誰の妻か」「誰の母か」で説明する歴史の書き方も、そこに重なったのでしょう。
さらに、中大兄皇子と中臣鎌足が横暴な蘇我氏を倒し、新しい国家をつくったという話は、英雄物語として分かりやすいものでした。
けれども、一人の英雄が歴史を動かしたという筋書きにまとめると、斉明天皇だけでなく、孝徳天皇や大海人皇子、群臣、渡来系の技術者、宮殿や水路を造った工人たちの姿も見えなくなります。
「中大兄皇子か、斉明天皇か」ではなく
斉明天皇を再評価することは、中大兄皇子の働きを否定し、これまで彼の功績とされたものを、すべて母親に取り戻すことではありません。
斉明天皇一人が、すべてを決めたわけでもないでしょう。
斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子、群臣たちは、協力することもあれば、意見を異にすることもあったはずです。
孝徳天皇と中大兄皇子の関係にも、対立をうかがわせる記事があります。
当時の政治は、一人の英雄によって動かされたのではなく、複数の皇族と群臣が、協力したり対立したりしながら進めたものとして見る必要があります。
だからこそ、
「中大兄皇子に大きな政治力があった」
ということと、
「斉明天皇が主体的な統治者だった」
ということは、矛盾しません。
共同で政治を行っていたからといって、斉明天皇が名目だけの存在だったことにはならないのです。
遺跡から見えてくる斉明天皇の時代
近年の発掘調査からは、飛鳥宮跡、
飛鳥京跡苑池、飛鳥水落遺跡、石神遺跡など、斉明天皇の時代に関係する遺構が明らかになっています。
宮殿、庭園、水を使った装置、外国使節を迎える施設。
そこからは、東アジアの技術や文化を取り入れ、国家の姿を目に見える形にしようとした時代が浮かび上がります。
もちろん、個々の施設を斉明天皇自身が発案し、直接命じたと断定することはできません。
遺跡と『日本書紀』の記事を、どこまで直接結びつけられるかについても、慎重に考える必要があります。
それでも、斉明天皇の時代が、大がかりな宮都の建設と活発な外交の時代だったことは確かです。
斉明天皇は、単に宮廷の奥で息子たちを見守っていた母ではありません。
空間を造り、新しい技術を取り入れ、人々を迎え、海の向こうの情勢に向き合った時代の中心にいた天皇でした。
おわりに――「誰を産んだ女性か」から「何をした天皇か」へ
斉明天皇は、天智天皇と天武天皇の母でした。
けれども、それは斉明天皇を知るための入り口であって、説明のすべてではありません。
学校で習った歴史の中では、中大兄皇子が主人公であり、斉明天皇はその母として後ろに立っていました。
しかし『日本書紀』を読み、皇位継承の複雑な流れを確かめ、飛鳥の遺跡を見直すと、別の姿が現れます。
祈りを行い、宮都を造り、外国の人々を迎え、百済救援のため九州へ赴いた統治者です。
斉明天皇を「誰を産んだ女性か」ではなく、「何をした天皇か」という目で読み直す。
そうすると、飛鳥時代は、中大兄皇子一人の英雄物語ではなく、女性天皇を含む複数の人々が、協力し、対立しながら新しい国家を形づくった時代として見えてきます。
歴史の主人公は、初めから一人だったわけではないのです。
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主な参考資料
- 義江明子『女帝の古代王権史』ちくま新書、2021年
- 義江明子「古代女性史から解き明かす皇位継承のジェンダーバイアス――女帝『中継ぎ説』を問い直す」nippon.com
- 『日本書紀』皇極天皇紀・孝徳天皇紀・斉明天皇紀・天智天皇紀
- 本間満『日本古代皇太子制度の研究』雄山閣
- 奈良文化財研究所・飛鳥資料館「世界遺産『飛鳥・藤原の宮都』と奈文研」
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