旭陽の部屋

好きな物(韓国ドラマ、短歌、二次小説)、日々の出来事、想うことなどあれこれ。 gooブログ、ライブドアブログから引越た記事もあります。

なぜ斉明天皇は「母」として語られてきたのか

――天智・天武の母ではなく、統治者として読み直す

 

 

私が学校で習った飛鳥時代の主人公は、中大兄皇子でした。

 

 

 

私の頃は「乙巳の変」という名称ではなく、蘇我入鹿を討った事件も含めて「大化の改新」と習ったように記憶しています。

 

 

 

横暴な蘇我氏を倒し、中臣鎌足とともに新しい国づくりを始めた若き英雄。それが中大兄皇子でした。

 

 

 

一方、そのとき天皇だった皇極天皇、後の斉明天皇について覚えていたのは、

 

 

 

「天智天皇と天武天皇という、二人の優秀な息子を産んだ女性」

 

 

 

ということくらいでした。

 

 

 

歴史小説などでも、中大兄皇子が政治の表舞台に立ち、母である斉明天皇は、その後ろにいる女性として描かれることが多かったように思います。

 

 

 

ところが、あらためて『日本書紀』の記事を見てみると、そこには「偉大な息子を産んだ母」だけでは説明できない斉明天皇の姿があります。

 

 

 

『日本書紀』に記された斉明天皇

 

 

斉明天皇は、もとは皇極天皇として即位しました。

 

 

 

『日本書紀』には、大干ばつの際、

南淵の河上で自ら四方を拝み、

雨を降らせたという記事があります。

 

 

 

この話からは、祭祀を担う女性天皇の姿が浮かびます。

 

 

 

しかし、斉明天皇は「祈る女帝」だっただけではありません。

 

 

 

宮殿や水路、苑池などの大規模な工事を進め、須弥山をかたどった石造物を設け、外国から来た人々をもてなしました。蝦夷や粛慎(しゅくしん)に関わる外交を進めました。

 

※粛慎とは、『日本書紀』に登場する北方の人々の呼び名です。北海道や樺太などに暮らした人々との関係が考えられていますが、具体的にどの集団を指すのかは、現在も議論があります。

 

 

百済が滅亡すると、その救援のため、自ら皇族や軍勢とともに九州まで移動しています。

 

 

 

高齢の女性天皇が都にとどまらず、

軍事・外交の前線に近い筑紫まで赴き、そこで亡くなったのです。

 

 

 

ここから見えるのは、息子たちに政治を任せた母ではなく、祭祀、造営、外交、軍事に関わった行動的な統治者です。

 

 

 

ただし、『日本書紀』が斉明天皇を一貫して高く評価しているわけではありません。

 

 

 

大規模な水路工事は「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と批判的に記され、水時計の製作などは中大兄皇子の業績として書かれています。

 

 

 

斉明天皇の時代は、天皇だけでなく、中大兄皇子や大海人皇子、群臣たちが、それぞれ大きな役割を担った時代だったのでしょう。

 

 

 

皇極・孝徳・斉明・天智という複雑な流れ

 

 

当時の皇位の流れを並べると、次のようになります。

 

 

 

- 皇極天皇 642~645年

 

- 孝徳天皇 645~654年

 

- 斉明天皇 655~661年

 

- 中大兄皇子の称制 661~668年

 

- 天智天皇 668~671年

 

 

 

皇極天皇と斉明天皇は、同じ人物です。

 

 

 

645年、皇極天皇が退位したあと、すぐに中大兄皇子が即位したわけではありません。皇位に就いたのは、皇極天皇の弟である孝徳天皇でした。

 

 

 

そして孝徳天皇が亡くなると、皇極前天皇が斉明天皇として再び即位します。

 

 

 

さらに重要なのは、斉明天皇が661年に亡くなったあとも、中大兄皇子はすぐには即位しなかったことです。

 

 

 

中大兄皇子は約六年半、天皇の位を空けたまま政治を行いました。これを一般に「称制」と呼びます。

 

 

 

正式に天智天皇として即位したのは668年。亡くなったのは671年末なので、正式な在位期間は約四年にすぎません。

 

 

 

この経過を見ると、

 

 

 

「斉明天皇は、中大兄皇子が天皇になるまで皇位を預かった母だった」

 

 

 

という説明だけでは、どうにも収まりません。

 

 

 

中大兄皇子には、皇極天皇が退位した645年と、斉明天皇が亡くなった661年の二度、即位できそうな機会がありました。しかし一度目は孝徳天皇が即位し、二度目は中大兄皇子自身が称制にとどまっています。

 

 

 

なぜ長く即位しなかったのか、明確な答えは残されていません。

 

 

 

百済救援と白村江での敗戦、唐・新羅への警戒、防衛施設の建設、近江への遷都など、国の存立に関わる問題が続いたためとも考えられます。

 

 

 

しかし、当時の皇位継承が、現在の私たちが考えるほど単純ではなかったことだけは確かでしょう。

 

 

 

中大兄皇子は本当に「皇太子」だったのか

 

 

『日本書紀』は、中大兄皇子を「皇太子」と記しています。

 

 

 

けれども、当時すでに後世の律令制と同じ皇太子制度が確立していたかどうかについては、研究者の間でも議論があります。

 

 

 

『日本書紀』が完成したのは720年です。斉明天皇の時代から約60年後であり、すでに律令国家の制度が整えられた時代でした。

 

 

 

そのため、『日本書紀』の編纂者が、自分たちの時代の制度や言葉を使って、過去の出来事を整理した可能性があります。

 

 

 

7世紀前半には「大兄」や「ひつぎのみこ」と呼ばれる有力な後継候補がいました。しかし、後世の皇太子のように、次の天皇になることが制度上保証されていたとは限りません。

 

 

 

皇太子制度の本格的な成立を、持統天皇11年(697年)に後継者とされた軽皇子、後の文武天皇からと見る説もあります。

 

 

 

中大兄皇子が大きな政治力を持っていたことは確かでしょう。

 

 

 

しかし、

 

 

 

「正式な皇太子として、母である斉明天皇に代わってすべての政治を行っていた」

 

 

 

とまでは断定できません。

 

 

 

後世の皇太子制度をそのまま過去に当てはめると、斉明天皇が名目上の天皇で、中大兄皇子こそが真の統治者だったという物語が、制度上当然のことのように見えてしまいます。

 

 

 

「乙巳の変」という呼び名が問い直す英雄物語

 

 

私が学校で習った頃は、645年に蘇我入鹿が殺害された事件も含めて「大化の改新」と呼んでいました。

 

 

 

横暴な蘇我氏を、中大兄皇子と中臣鎌足が倒し、新しい国づくりを始めた――。そこには、悪い権力者を若い英雄たちが討つという、分かりやすい物語がありました。

 

 

 

現在は、宮中で蘇我入鹿が殺害された政変を「乙巳の変」、その後に進められた政治改革を「大化の改新」と分けて考えるようになっています。

 

 

 

しかし、変わったのは名称だけではありません。

 

 

 

古代史研究者の遠山美都男さんは、

『日本書紀』に描かれた乙巳の変の物語そのものを、あらためて検討する必要があると指摘しています。

 

 

 

『日本書紀』が完成したのは720年。

事件から75年ほど後のことです。

遠山さんによれば、『日本書紀』は、

天智天皇の血統と藤原氏が国家形成に大きく貢献したことを示すため、中大兄皇子と中臣鎌足を乙巳の変の中心人物とする「王権神話」を形づくった可能性があります。

 

 

 

もちろん、中大兄皇子と中臣鎌足が政変に加わったことまで否定されるわけではありません。

 

 

 

問題は、二人だけを歴史の主人公とすることで、同じ政治の場にいた皇極天皇や、その後に即位した孝徳天皇の意思と行動が見えなくなってきたことです。

 

 

 

従来、皇極天皇は蘇我入鹿の暗殺を知らされておらず、目の前で事件が起きたことに驚いて退位した、と説明されることがありました。中大兄皇子らに押され、皇位を手放した女性として描かれてきたのです。

 

 

 

これに対して遠山さんは、皇極天皇が自らの判断で弟の軽皇子、後の孝徳天皇に王位を譲った可能性を重視します。王位継承をめぐる争いを抑え、王権の分裂を避けるために、生前譲位という新しい方法を選んだのではないかという見方です。

 

 

 

また、遠山さんは、乙巳の変で若い中大兄皇子だけが中心的な役割を果たしたと見るのではなく、皇極天皇や軽皇子も政変に主体的に関わった可能性を指摘しています。

 

 

 

これは現在の研究者全員に共有された確定的な結論ではありません。乙巳の変を誰が計画し、皇極天皇がどこまで事前に知っていたのかは、今も議論が続いています。

 

 

 

それでも、この研究が示していることは重要です。

 

 

 

私たちが学校で習った「中大兄皇子と中臣鎌足が、横暴な蘇我氏を倒した」という物語は、『日本書紀』が伝える歴史をもとに、後世の教科書が分かりやすく組み立てたものです。

 

 

 

そこからいったん離れてみれば、乙巳の変は、一人の英雄が悪人を討った事件ではなく、皇極天皇、軽皇子、中大兄皇子、古人大兄皇子、蘇我氏や群臣たちが、王位と政治のあり方をめぐって動いた複雑な政変として見えてきます。

 

 

 

「大化の改新」から「乙巳の変」へ。

 

 

 

その呼び名の変化は、単なる用語の言い換えではありません。誰を歴史の主人公としてきたのかを問い直す入り口でもあるのです。

 

 

 

そして皇極天皇を、息子の起こした事件に驚いて退位した母ではなく、王位継承に自ら関与した統治者として見直すことは、後に斉明天皇として再び即位した理由を考える手がかりにもなります。

 

 

 

女性天皇は「中継ぎ」だったのか

 

 

 

 

歴史学者の義江明子さんは、古代の女性天皇を「男性皇族が即位するまでの中継ぎ」と見る考え方を問い直しています。

 

 

 

義江さんによれば、女帝中継ぎ説は、皇位の男系男子継承が制度化された明治期に生まれ、1960年代には学説として定着しました。

 

 

 

当時は、父から息子へ皇位を伝えることが日本古来の原則であり、女性天皇はそこから外れた例外だと考えられていたのです。

 

 

 

しかし近年は、古代社会では、父方だけでなく母方の血統も、その人の政治的地位を支える重要な要素だったと考えられています。

 

 

 

義江さんは、これを「双系的」な社会と説明します。

 

 

 

そのような社会では、十分な年齢と血統、政治的な経験を持つ女性皇族も、男性と同じように王位を担いうる存在でした。

 

 

 

義江さんは、斉明天皇についても、

いったん退位したあと、実力によって再び皇位に就いた女性として捉えています。

 

 

 

女性天皇を最初から「例外」や「代役」と決めてしまえば、本人が何を考え、何を行ったのかは見えにくくなります。

 

 

 

なぜ斉明天皇は「母」として語られたのか

 

 

斉明天皇が、天智天皇と天武天皇の母だったことは事実です。

 

 

 

しかし、後に二人の息子が大きな存在になったため、母の政治活動まで息子たちの物語に吸収されてしまったのではないでしょうか。

 

 

 

中大兄皇子は、後の天智天皇です。

大海人皇子は、壬申の乱に勝利して天武天皇となります。

 

 

 

二人とも日本の国家形成を語るうえで欠かせない天皇です。

 

 

 

その二人の間に立つ斉明天皇は、

 

 

 

「天智・天武という偉大な男性天皇を産んだ母」

 

 

 

として説明されるようになりました。

 

 

 

女性を「誰の妻か」「誰の母か」で説明する歴史の書き方も、そこに重なったのでしょう。

 

 

 

さらに、中大兄皇子と中臣鎌足が横暴な蘇我氏を倒し、新しい国家をつくったという話は、英雄物語として分かりやすいものでした。

 

 

 

けれども、一人の英雄が歴史を動かしたという筋書きにまとめると、斉明天皇だけでなく、孝徳天皇や大海人皇子、群臣、渡来系の技術者、宮殿や水路を造った工人たちの姿も見えなくなります。

 

 

 

「中大兄皇子か、斉明天皇か」ではなく

 

 

斉明天皇を再評価することは、中大兄皇子の働きを否定し、これまで彼の功績とされたものを、すべて母親に取り戻すことではありません。

 

 

 

斉明天皇一人が、すべてを決めたわけでもないでしょう。

 

 

 

斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子、群臣たちは、協力することもあれば、意見を異にすることもあったはずです。

 

 

 

孝徳天皇と中大兄皇子の関係にも、対立をうかがわせる記事があります。

 

 

 

当時の政治は、一人の英雄によって動かされたのではなく、複数の皇族と群臣が、協力したり対立したりしながら進めたものとして見る必要があります。

 

 

 

だからこそ、

 

 

 

「中大兄皇子に大きな政治力があった」

 

 

 

ということと、

 

 

 

「斉明天皇が主体的な統治者だった」

 

 

 

ということは、矛盾しません。

 

 

 

共同で政治を行っていたからといって、斉明天皇が名目だけの存在だったことにはならないのです。

 

 

 

遺跡から見えてくる斉明天皇の時代

 

 

近年の発掘調査からは、飛鳥宮跡、

飛鳥京跡苑池、飛鳥水落遺跡、石神遺跡など、斉明天皇の時代に関係する遺構が明らかになっています。

 

 

 

宮殿、庭園、水を使った装置、外国使節を迎える施設。

 

 

 

そこからは、東アジアの技術や文化を取り入れ、国家の姿を目に見える形にしようとした時代が浮かび上がります。

 

 

 

もちろん、個々の施設を斉明天皇自身が発案し、直接命じたと断定することはできません。

 

 

 

遺跡と『日本書紀』の記事を、どこまで直接結びつけられるかについても、慎重に考える必要があります。

 

 

 

それでも、斉明天皇の時代が、大がかりな宮都の建設と活発な外交の時代だったことは確かです。

 

 

 

斉明天皇は、単に宮廷の奥で息子たちを見守っていた母ではありません。

 

 

 

空間を造り、新しい技術を取り入れ、人々を迎え、海の向こうの情勢に向き合った時代の中心にいた天皇でした。

 

 

 

おわりに――「誰を産んだ女性か」から「何をした天皇か」へ

 

 

斉明天皇は、天智天皇と天武天皇の母でした。

 

 

 

けれども、それは斉明天皇を知るための入り口であって、説明のすべてではありません。

 

 

 

学校で習った歴史の中では、中大兄皇子が主人公であり、斉明天皇はその母として後ろに立っていました。

 

 

 

しかし『日本書紀』を読み、皇位継承の複雑な流れを確かめ、飛鳥の遺跡を見直すと、別の姿が現れます。

 

 

 

祈りを行い、宮都を造り、外国の人々を迎え、百済救援のため九州へ赴いた統治者です。

 

 

 

斉明天皇を「誰を産んだ女性か」ではなく、「何をした天皇か」という目で読み直す。

 

 

 

そうすると、飛鳥時代は、中大兄皇子一人の英雄物語ではなく、女性天皇を含む複数の人々が、協力し、対立しながら新しい国家を形づくった時代として見えてきます。

 

 

 

歴史の主人公は、初めから一人だったわけではないのです。

 

 

 

---

 

 

 

主な参考資料

 

 

 

- 義江明子『女帝の古代王権史』ちくま新書、2021年

 

- 義江明子「古代女性史から解き明かす皇位継承のジェンダーバイアス――女帝『中継ぎ説』を問い直す」nippon.com

 

- 『日本書紀』皇極天皇紀・孝徳天皇紀・斉明天皇紀・天智天皇紀

 

- 本間満『日本古代皇太子制度の研究』雄山閣

 

- 奈良文化財研究所・飛鳥資料館「世界遺産『飛鳥・藤原の宮都』と奈文研」

 

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#中大兄皇子

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#乙巳の変

#斉明天皇

#皇極天皇

#義江明子

 

20年前の「歌」を見つけた日

2026年10月1日

 

 

 

 

今日から10月。

 

 

 

今日の題詠は「肩こり」。

 

 

 

肩こりなら、私には長〜い付き合いがある。

 

なんと中学生の頃には、すでに立派な肩こり持ちだった。

 

 

 

中学3年の受験生だった私は、暖房のない自分の部屋で、半纏を着て、足温器を使い、首には当時流行っていた磁石のネックレス。

 

 

 

思い出してみると、なかなかの姿である(笑)

 

 

 

そこで一首。

 

 

 

一葉の文章の才及ばねど

 

吾も同じく頭痛肩こり

 

 

 

「頭痛肩こり樋口一葉」ならぬ、

頭痛肩こり旭陽。

 

 

 

もう一首。

 

 

 

受験生 お伴は半纏 足温器

 

そして磁石の 首飾りして

 

 

 

半纏、足温器、磁石の首飾り。

 

 

 

なんともThe昭和な受験生😁

 

 

 

私はよく「短歌は写真みたいなもの」と思うのだけれど、これはまさに、中学3年の私をパシャッと写した一枚になった。

 

 

 

そして今日は、もっとすごいものを発掘した。

 

 

 

またまたヒサトさんの昔のブログを掘っていたら、2005年11月の自分の記事にたどり着いた。

 

 

 

当時の私は体調を崩していて、食欲もなく、大好きだったコーラスさえ

「歌いたいと思わない」と書いている。

 

 

 

そこへヒサトさんが、こんなコメントをくれていた。

 

 

 

「でも、阿波の局さん、ステキな歌が書けてるじゃありませんか。私、大好きだよ。」

 

 

 

あったーーー!

 

 

 

これ、覚えていた。

 

 

 

私の記憶の中では、

 

 

 

「短歌が詠めてるじゃない」

 

 

 

という言葉になって残っていた。

 

 

 

記事そのものを何度も読み返したわけではない。

 

それなのに20年たっても覚えていたのだから、よほど嬉しかったんだろうな。

 

 

 

ところが、この大事な記事。

 

 

 

なぜか私は下書きに戻して、非公開にしていた。

 

 

 

なぜ?

 

 

 

知らんがな。20年前の私に聞いてくれ🤣

 

 

 

でも消してはいなかった。

 

おかげで20年後の私が発掘できた。

 

 

 

さらに元をたどってみると、ヒサトさんの「きえそうなきみに」という川柳を読んで、私が「痛い」とコメントしたところから、このやり取りは始まっていた。

 

 

 

ヒサトさんの言葉を受けて私が短歌を詠み、その短歌をヒサトさんが「ステキな歌」と受け取ってくれた。

 

 

 

そして翌2006年。

 

 

 

ヒサトさんが雨上がりの庭の写真を載せて、「みんなも一句書いてみよう」と呼びかけていた。

 

 

 

そこにも私がいた(笑)

 

 

 

降るときは 嫌われ者の その雫

 

乾いた肌に 分けて欲しい

 

 

 

これにヒサトさんが、

 

 

 

きみの掌に染みこんでゆくのは想い

 

 

 

と返してくれていた。

 

 

 

おお。ちゃんとコラボしてるじゃないか、20年前の私たち😁

 

 

 

こうして昔のブログをたどっていると、自分の記事だけ読んでいたのでは見つからなかったものが、コメント欄からポロポロ出てくる。

 

 

 

短歌だけじゃない。

 

 

 

そのとき何を考えていたか。

 

誰と話していたか。

 

そして、どんな言葉をもらって嬉しかったのか。

 

 

 

コメント欄って、ずいぶん面白いタイムカプセルだ。

 

 

 

今夜の振り返りで「明日にも持っていきたいもの」を一つ選ぶなら、やっぱりヒサトさんのこの言葉。

 

 

 

「ステキな歌が書けてるじゃありませんか。」

 

 

 

声で歌いたいと思えなかった頃にも、私は言葉では歌っていたらしい。

 

 

 

そして20年後の今日も、半纏だの足温器だの磁石の首飾りだのを短歌にしている(笑)

 

 

 

たぶん、これからも変わらない。

 

 

 

今日もう一つ詠んだ歌が、ちゃんと答えになっていた。

 

 

 

百歳を超えてもきっと変わらない

 

私は私今を詠ずる

 

 

 

うん。

 

 

 

百歳の私も、何か見つけては一首詠んでいる気がする😁

 

#日記

#肩こり

#短歌アプリ57577

 

居酒屋ヒサト🏮本日開店?

 

2026年9月30日(水)

今日は週に一度の買い物の日。

買い物を終えた時点ですでに少々お疲れモードだった。

 

今日の題詠は「乗車」。

 

最初は「乗車口」をどう歌に入れようかと考えていたけれど、『韓の国の人』の響子さんとゆちょん君の場面を思い出した。

 

じゃあ、またと約束もせず背を向ける

君を車内にひとり残して

 

響子さんを列車に残し、「あら、あっさり帰っちゃった」と思わせておいて、ゆちょん君は別の乗車口からこっそり乗車。そのまま一緒に公州まで行ってしまう。

 

そうそう、この場面はもう書いてあった。

お題から昔の物語の一場面が、また一枚の写真のように出てきた。

 

そして今日も、ヒサトさんのブログ発掘。

 

昨夜見つけた2006年の短歌を整理して、**「2006年・ヒサトさんのブログコメント欄にあった短歌」**というファイルを作った。

 

その後も発掘は止まらない。

 

2006年2月9日の記事では、ヒサトさんが交差点で知らない青年に「おつかれさんです」と人違いされ、二人で大笑いした話。そのコメント欄に私は、

 

交差点 見知らぬ同士 勘違い

挨拶してのち 大爆笑

 

と置いていた。

 

さらに、

 

私は、初めちょっと人見知りするほうなので、なかなか気軽に挨拶したり、話しかけたりするのが苦手。

話し始めると止まらないほうですけれど。笑

 

……20年前から変わってない🤣

 

ヒサトさんからは「シャイなヒトほど、慣れてくるとこうなる。そのギャップが面白い」と返されていた。

 

そして2月16日には、なんと**「居酒屋ヒサト」開店**。

 

この店では、お客も店主も「ちゃん」付け。しかも会話は五・七・五か七・七。帰りのお愛想は一句か一首。

 

私は開店から39分後に早くも来店して、

 

つうるりと 上手にむけた ゆで卵

美味しくしみたら ちょうだいね

 

翌日も一番客で、「次男」を注文。

 

生む時も えらく苦労ば したけれど

いつまでたっても 手のかかる奴

 

「手がかかる子ほどかわいいっていいますけど、かわいすぎるよ。涙」とまで書いている。

 

ところが店主のヒサトちゃん、二日目にして酔っ払い、

 

今夜はもう、酔っ払っちゃったから、五・七・五はカンバン。(笑)

 

早くも店のルール崩壊🤣

 

こうして見ていると、当時の私は

「短歌を作品として発表する」というより、おしゃべりの途中でポンと一首置いて帰っていたらしい。

 

寝る前はYouTubeを見ることが多かったけれど、しばらくはヒサトさんのブログをたどる夜が続きそう。

発掘しても発掘しても出てくるので、

今日はここでいったん強制終了😁

 

そして、今日いちばん「少し前に進めたな」と感じたこと。

 

しばらく疲れていて台所に立っていなかった娘が、この二三日台所に入ってくる。今日は茶碗蒸しが食べたいと出汁を取って具材の下ごしらえをしてくれた。

 

食べることも料理することも好きな人だから、台所に立つ姿が戻ってきたのを見て、少し安心した。

 

それに――

 

娘が台所に立ってくれると、美味しいものが食べられる☺️

 

これはかなり大事(笑)。

 

昔の言葉をたくさん拾った一日だったけれど、今日いちばん嬉しかったのは、そんな目の前の小さな変化だった。

 

#日記

#短歌アプリ57577

#乗車

 

飛び立つ前の雛たち㉑ 「春が来ても」

四月に入った。

 

東京では、もう桜が咲いていた。

 

仙台も少しずつ春らしくなっているらしい。

 

朝、出勤前に裕子が携帯を開くと、母のつぶやきが目に入った。

 

> 旦那に「花壇に花でも植えておいて」と言われた。

春だもんね。春らしくしないと。

でも、苗を買いに行って植えるところからかと思うと面倒。

娘がいたら頼むんだけどなあ。

 

 

 

裕子は小さく笑った。

 

水を汲んだり、食べ物を探したりしていた頃には、あれだけ動き回っていた母が、花を植えるのは面倒だという。

 

その数日後には、

 

> 買い物に行っただけなのに疲れた。

帰ってきて昼寝。

震災直後のほうが元気だったような気がする。

今ごろ疲れが出てきたのかな。

 

 

 

と書いていた。

 

父は仕事へ行く。

 

昼間の家には、母ひとりになった。

 

洗濯をして、掃除をして、買い物へ行って、夕飯を作る。

 

水を汲みに行かなくていい。

給水車を待たなくていい。

食べ物がなくなる心配も、少しずつしなくてよくなった。

 

日常に近づいた分、張り詰めていたものが解け始めたのだろうか。

 

自分もそうだったように。

 

東京へ戻ったばかりの頃は、普通に会社へ行けた。

仕事もできた。

 

それなのに休みの日になった途端、昼過ぎまで眠り、何か食べて、また眠った。目を覚ましたら夕方だった。

 

母にも今、それが来ているのかもしれない。

 

それでも母のつぶやきには、少しずついつもの調子が戻ってきた。

 

> 結局、花の苗を買ってきた。

植えてみたら、やっぱり花壇に色があるのはいい。

旦那に「ほら、植えたよ」とメールしてやった。

 

 

 

やがて、仙台でも桜が咲いた。

 

けれど、春はまっすぐにはやって来なかった。

 

> やっとタイヤを替えたのに、みぞれ。

なんでやねん。

桜も震えているよ、きっと。

 

 

 

裕子はそのつぶやきを読んで、窓の外を見た。

 

東京の桜は、もうほとんど終わっていた。

 

その夜、ユチョンからメールが来た。

 

> ソウルも桜が咲きましたよ。

 

 

 

裕子は、前に聞いた名前を思い出した。

 

> この前言ってた南山公園?

 

 

 

すぐに返事が来た。

 

> 南山も。汝矣島も綺麗ですよ。

今、すごい人です。

 

 

 

> 韓国でもお花見するんだ。

 

 

 

少し間があいた。

 

> 花見?

 

 

 

裕子は笑った。

 

> 桜の下で食べたり飲んだり。

 

 

 

> ああ。そういうのとは少し違うかな。

桜を見ながら歩いたり、写真を撮ったりします。

 

 

 

> そうなんだ。

いつか行ってみたいな。

 

 

 

送信してから、裕子は「あ」と思った。

 

前にも同じようなことを書いた気がする。

 

けれど、ユチョンから返ってきたのは、

 

> じゃあ、いつか。

 

 

 

それだけだった。

 

*

 

ある夜、裕子は母のブログを開いた。

 

短い記事の中に、一首の歌があった。

 

> 降る雨は 黒くよどみは してないが

きれいかどうか 誰も知らない

 

 

 

裕子は、しばらくその歌を見ていた。

 

雨は、いつもの雨と何も変わらない。

 

母が何を気にしているのかは、聞かなくても分かった。

 

翌日の夜、裕子は母に電話をかけた。

 

「もしもし」

 

「あら、裕子。どうしたの?」

 

思っていたより明るい声だった。

 

「別に。何してた?」

 

「韓国ドラマ見てた。お父さん、まだ帰ってないし」

 

「ちゃんとご飯食べてる?」

 

「食べてるわよ。今日は買い物にも行ったし」

 

「体調は?具合悪くしてない?」

 

「大丈夫よ。もう普通に買い物できるようになったから」

 

「そっか」

 

「そうそう。花壇にも花、植えたのよ」

 

「知ってる。Twitterに書いてたじゃない」

 

「あら。Twitterまで見てるの?」

 

「見てるよ」

 

「やだ。余計なこと書けないじゃない」

 

「もう遅いよ。面倒だって書いてたのも見たから」

 

母が笑った。

 

「だって、面倒だったんだもの。

でも植えてみたら、やっぱりいいわね。春らしくなったわよ」

 

「写真撮ったの?」

 

「撮った、撮った。あとで送る」

 

少し間を置いて、母が言った。

 

「お父さんと、お花見ドライブに行こうかなって思ってる」

 

「いいじゃない。行ってきなよ」

 

「裕子は? お花見行ったの?」

 

「行ってないよ」

 

「せっかく東京は早く咲いたのに」

 

「なんとなく……こっちはそういう雰囲気じゃないんだよね」

 

「そうなの?」

 

「うん」

 

東京にいる裕子より、仙台にいる母のほうがお花見の話をしている。

 

なんだかおかしくて、裕子は笑った。

 

「お父さん、行きたがってるの?」

 

「うん。どこに行く、いつ行くって。うるさいのよ」

 

「じゃあ、連れてってもらえばいいじゃない」

 

「そうね。桜が散らないうちにね」

 

それからしばらく、どうでもいい話をした。

 

父が仕事から帰ると相変わらずビールを飲むこと。スーパーの棚にも、だいぶ商品が戻ってきたこと。

 

「そういえば、Twitterまで見てるとは思わなかったわ」

 

「フォローしてるって言ったじゃない」

 

「そうだった?じゃあ、もう弱音は書けないね」

 

「別に書けばいいじゃない」

 

「いやよ。あなた、心配するでしょう?」

 

母は笑って言った。

 

それから母のTwitterには、花壇の花や買い物の話が増えた。

 

けれど裕子の知らないところで、母は時々、友人のブログのコメント欄に弱音をこぼすようになった。

 

*

 

「じゃあ、また電話するね」

 

「うん」

 

「お父さんによろしく」

 

「はいはい」

 

電話を切ろうとしたときだった。

 

「裕子」

 

「なに?」

 

「あなた、しばらく帰ってこなくていいからね」

 

裕子は何も聞かなかった。

 

黒くも、よどんでもいない雨。

 

母のブログにあった歌を思い出した。

 

「……うん」

 

「じゃあね」

 

「うん。またね」

 

電話が切れた。

 

窓の外には、もう桜の季節を終えようとしている東京の夜があった。

すっかり夜更かししてしまった翌日



📔 2026年9月29日(火)

 

 

 

昨夜は、ヒサトさんのブログの古いコメント欄を発掘していたら止まらなくなって、すっかり夜更かし。

 

 

 

2011年のコメント欄には、「阿波の局」だった私が思っていた以上にたくさんいた。

 

 

 

しかも普通におしゃべりしている途中に、

 

 

 

「そういえば……」

 

 

 

くらいの調子で短歌がポン、ポンと置いてある。

 

 

 

自分のブログには残していなかった歌も出てきた。

 

 

 

> 夏という 季節はなぜか なつかしい

 

青春なんて 頃に似ている

 

 

 

 

 

 

 

> ヒサトちゃん 泣いてなんか いないよね

 

ごぶさただから ちょっと心配

 

 

 

 

 

 

 

> 窓の外 暗闇からの 虫の声

 

聞きつつ汗が 流れる残暑

 

 

 

 

 

 

 

どうやら私は昔から、おしゃべりしながら短歌を詠んでいたらしい。

 

 

 

もちろん、本当は一首できるまでウンウン考えていたのかもしれない。

そこまではもう覚えていない。

 

 

 

でも、完成した歌を自分のブログへ持ち帰るでもなく、そのままヒサトさんのコメント欄へ置いて帰っている。

 

 

 

だから歌そのものを忘れていたのだ。

 

 

 

さらに遡ると、2011年の私自身が、ヒサトさんとの付き合いがいつ始まったのかを発掘していた。

 

 

 

最初のコメントは2005年10月22日。

 

 

 

その半月ほど前にブログを発見して、

 

 

 

「コメントの機会を狙っていた」

 

 

 

らしい。

 

 

 

狙ってたんだ、私🤣

 

 

 

そして震災からまだ3か月ほどしか経っていない2011年6月には、

 

 

 

> 「今では、本当にここが心のオアシスです。」

 

 

 

 

 

 

 

とも書いていた。

 

 

 

今になって「あの頃は心の支えだったんだろうな」と解釈したのではない。

 

 

 

2011年の私自身が「心のオアシス」と書いていた。

 

 

 

これにはちょっと驚いた。

 

 

 

ほかにも、ヒサトさんの記事のコメント欄で、みんなが五・七・五と七・七をつないで遊んでいたり、名も知らない小さな花を見て、

 

 

 

> お日様と 雨の雫と それだけで

 

満ち足りている あなたの強さ

 

 

 

 

 

 

 

と詠んでいたり。

 

 

 

ヒサトさんから「傑作だと思う」と褒められた私が、

 

 

 

「上手くなろうとは思っていない。

31文字で過不足なく読めれば嬉しい」

 

 

 

というようなことまで書いていた。

 

 

 

15年前から、あんまり変わってないじゃん😁

 

 

 

そもそも今回2011年を遡り始めたのは、未完だった小説『飛び立つ前の雛たち』を書くためだった。

 

 

 

㉑「春が来ても」の骨格もだいぶ見えてきた。

 

 

 

ところが、小説の資料を探していたはずが、いつの間にか自分の言葉の発掘作業になってしまった。

 

 

 

今日の題詠は「港町」。

 

 

 

最初に浮かんだのは、額田王の

 

 

 

「熟田津に船乗りせむと月待てば……」

 

 

 

それから寅さんのリリー、小樽。

 

 

 

でも、自分自身の「港町」がなかなか出てこない。

 

 

 

……と思ったら、あった。

 

 

 

苫小牧へ向かうフェリー。

 

 

 

乗船して、夕食の前に船のお風呂へ入る。

 

 

 

その窓の向こうにはフェリーターミナル。

 

 

 

つまり向こうからも、こちらが見える可能性がある。

 

 

 

ちゃんと入口に注意書きまであった。

 

 

 

それでも入ったけど🤣

 

 

 

そこから、

 

 

 

> 船の湯の 窓の向こうは ターミナル

 

目を凝らす人の ありやなしや

 

 

 

 

 

 

 

発掘に夢中になって「港町」がどこかへ行きかけたけれど、今日の題詠も無事投稿できた。

 

 

 

そして今日は、この数日の発掘からnoteの記事も一本できた。

 

 

 

タイトルは、

 

 

 

「友達のブログに残っていた、私も忘れていた私の言葉」

 

 

 

短歌は写真のようなもの。

 

 

 

今回見つけた歌は、少し違う。

 

 

 

自分では持っていなかった昔の写真を、友達がずっと持っていてくれた。

 

 

 

昔交流していたブログやホームページには、もうなくなってしまったものも多い。

 

 

 

ヒサトさんのブログも一時期はガーデニング中心になり、私もいつしか訪ねなくなった。

 

 

 

それが今年、久しぶりに訪ねたら、ヒサトさんはまた川柳を詠んでいた。

 

 

 

そしてブログも、そこに残っていた。

 

 

 

だから15年後の私が、置きっぱなしにして忘れていた「昔の写真」を受け取りに行けた。

 

 

 

記事は今日、無事noteに投稿。

 

 

 

……と、いい気分で一日を終えたいところなのに。

 

 

 

今日はなぜだか迷惑メールがバンバン来る日💢

 

 

 

スマホが、

 

 

 

ぶっぶ。

 

 

 

ぶっぶ。

 

 

 

ぶっぶ。

 

 

 

五月蝿いっ😡

 

 

 

15年前から届いた言葉なら大歓迎だけれど、

 

 

 

頼んでもいない今日の迷惑メールはいりません。🤣

 

 

 

今日は、昔の言葉を拾い集めて、

それを新しい文章にして、またネットの世界へ置いてきた一日だった。

 

#日記

#ブログ

#短歌アプリ57577

#港町

 

 

友達のブログに残っていた、私も忘れていた私の言葉

 

自分のブログには残っていない私の短歌が、二十年来の友人のブログに残っていた。

 

 

 

見つけようと思って探したわけではない。

 

 

 

きっかけは、今書いている小説『飛び立つ前の雛たち』だった。

 

 

 

この小説の後半は、2011年3月の東日本大震災後の仙台を舞台にしている。

 

 

 

この小説は、長い間未完のままになっていた。

それを、今年になってもう一度書き始めた。

 

 

 

続きを書くために、当時の自分のブログを読み返した。

 

 

 

あの日は雪が降っていた。

 

 

 

電気はいつ戻ったのか。

 

 

 

水道が使えない間、どんな生活をしていたのか。

 

 

 

そうした事実を確かめるだけではなく、あの頃の私が何を見て、何を感じていたのか。

それを思い出すためでもあった。

 

 

 

その流れで、昔からのブログ友達、

ヒサトさんのブログの2011年の記事やコメント欄も読み始めた。

 

 

 

「阿波の局」という名前が出てくる。

 

 

 

私だ。

 

 

 

しかも、よくしゃべっている。

 

 

 

それだけではない。

 

 

 

短歌まで詠んでいる。

 

 

 

おしゃべりの途中に、短歌がポンと置いてある

 

 

2011年のコメント欄を読んでいて驚いたのは、私が思っていた以上に短歌を詠んでいたことだった。

 

 

 

といっても、「一首できました」と

作品を発表するような感じではない。

 

 

 

ヒサトさんの記事を読んで、あれこれおしゃべりをしている。

 

 

 

誰かのコメントに返事をしている。

 

 

 

その途中に、

 

 

 

> 夏という 季節はなぜか なつかしい

 

青春なんて 頃に似ている

 

 

 

 

 

 

 

と、一首ポンと置いてある。

 

 

 

別の日には、しばらくブログを更新していないヒサトさんを心配して、

 

 

 

> ヒサトちゃん 泣いてなんか いないよね

 

ごぶさただから ちょっと心配

 

 

 

 

 

 

 

また別の日には、

 

 

 

> 窓の外 暗闇からの 虫の声

 

聞きつつ汗が 流れる残暑

 

 

 

 

 

 

 

コメント欄を辿っていると、こんなふうに短歌がポン、ポンと出てくる。

 

 

 

今の私から見ると、まるでおしゃべりするように短歌を詠んでいたように見える。

 

 

 

もちろん、本当にその場ですらすら詠んだのか、一首できるまで一生懸命考えていたのか、そこまでは覚えていない。

 

 

 

でも少なくとも、できた歌を「作品」として自分のブログへ持ち帰ることもなく、そのときのおしゃべりの中に置いてきた歌がたくさんあった。

 

 

 

だから私は、そんな歌があったことさえ忘れていた。

 

 

 

そして15年たって、その場所を訪ねてみたら、置いてきた短歌がそのまま残っていた。

 

 

 

昨夜はとうとう、スクリーンショットを撮るのが止まらなくなった。

 

 

 

「もう寝なくちゃ」

 

 

 

と思いながら、もうひとつ。

 

 

 

また、もうひとつ。

 

 

 

すっかり夜更かししてしまった。

 

 

 

川柳から、勝手に冬ソナを妄想する

 

 

コメント欄を読みながら、もうひとつ改めて感じたことがある。

 

 

 

私は、ヒサトさんの川柳をずいぶん楽しんで読んでいた。

 

 

 

ヒサトさんは川柳を書く人だ。

 

 

 

けれども私は川柳を勉強しようと思って彼のブログを訪問していたわけではない。

 

 

 

彼の句を読んでいると、ときどきどうしようもなく妄想を刺激される事があった。

 

 

 

2005年11月、「雷」という題で詠まれた連句の中に、こんな一句があった。

 

 

 

> 君はもう死んだと言って聞かせ…冬  ヒサト

 

 

 

 

 

 

 

私はすぐにコメントしている。

 

 

 

「ヒサトさんはご覧になってないそうですが、これって『冬ソナ』の世界ですよ。」

 

 

 

ヒサトさんからは、

 

 

 

「そうなんだ。そう言われてみると、そんな雰囲気に感じられるから、不思議だよなあ。」

 

 

 

と返事が来た。

 

 

 

翌日、私はまた書いている。

 

 

 

「この句をもとに短いお話を書いてもいいですか?(もちろん冬ソナのサイドストーリーです。)」

 

 

 

ヒサトさんは、

 

 

 

「どうぞどうぞ! 楽しみにしてます。うれしいね。」

 

 

 

そして12月12日、私は『追憶』という短い物語を書いてトラックバックしている。

 

 

 

ヒサトさんは『冬のソナタ』を見たことがない。

 

 

 

冬ソナを意識して詠んだ句ではないのに、私には冬ソナの世界に見えてしまう。

 

こんなふうに、ヒサトさんの川柳からイメージを膨らませて冬ソナのサイドストーリーを書いたものは、ほかにいくつもある。

 

 

 

いくつあるのかは数えたことがない。

 

 

 

ヒサトさんが言葉を投げる。

 

 

 

私が受け取って、短歌や物語にして返す。

 

 

 

そんな言葉のキャッチボールを、私たちはずいぶん長いことしていた。

 

 

 

「ここが心のオアシス」

 

 

そして2011年のコメント欄には、忘れていた自分の気持ちも残っていた。

 

 

 

2011年は、東日本大震災の年だ。

 

 

 

私は当時、仙台に住んでいた。

 

 

 

震災後のコメントを読み返してみると、私は思っていた以上にヒサトさんのブログへ通っている。

 

 

 

ヒサトさんは秋田、私は仙台。

 

 

 

年齢も近く、家族や孫の話もする。

 

 

 

共感できることが多かったのだと思う。

 

 

 

5月のある記事では、コメント欄に集まった人たちが、いつの間にか五・七・五と七・七をつなぐ歌仙のような言葉遊びを始めている。

 

 

 

私もそこへ入って、

 

 

 

> ここだけが 心休まる オアシスで

 

 

 

 

 

 

 

と書いていた。

 

 

 

さらに6月9日のコメントには、こんな一文がある。

 

 

 

> 「今では、本当にここが心のオアシスです。」

 

 

 

 

 

 

 

これを書いたことを、私はすっかり忘れていた。

 

 

 

今振り返れば、震災後の自分にとって、ヒサトさんのブログは心の拠り所だったのだろうと思う。

 

 

 

でも、それは15年後の私が、過去を振り返ってそう思ったのではなかった。

 

 

 

あのときの私自身が、

 

 

 

「心のオアシス」

 

 

 

と書いていた。

 

 

 

忘れていた自分の気持ちを、昔の自分から教えてもらったような気がした。

 

 

 

2011年の私も、昔を遡っていた

 

さらに面白いものを見つけた。

 

 

 

2011年6月9日の私は、こんなことを書いている。

 

 

 

> 「さて、私がヒサトちゃんのブログにいつ頃からお邪魔しているのか、さかのぼって探してみました。」

 

 

 

 

 

 

 

そして、

 

 

 

> 「2005年10月22日に初めてコメントしていたんですね。」

 

 

 

 

 

 

 

と、自分で調べている。

 

 

 

さらに括弧の中には、

 

 

 

> 「その半月前くらいにこちらを発見し、コメントの機会を狙っていた」

 

 

 

 

 

 

 

とある。

 

 

 

そう。

 

 

 

狙っていたのだ🤣

 

 

 

初めてコメントするのは、結構勇気がいる。

 

 

 

掲示板でもそうだったし、個人のホームページやブログならなおさらだった。

 

 

 

それでも半月ほど通いながらコメントする機会を狙っていたのだから、よほどヒサトさんのブログが面白かったのだろう。

 

 

 

そして2026年の私は、そのことを書いた2011年のコメントを読んでいる。

 

 

 

昔の自分が残してくれた発掘メモを、さらに発掘しているようで面白い。

 

 

 

変わらず、そこにいてくれた

 

 

一時期、いくつもある昔のブログをひとつにまとめようかと思ったことがある。

 

 

 

もう更新していないブログなら、閉じてしまってもいいのではないか、と考えたこともあった。

 

 

 

でも今回、昔の記事やコメント欄を発掘し始めて、つくづく思う。

 

 

 

残しておいて、よかった。

 

 

 

2005年頃に交流していたブログやホームページで、今も残っているところがどのくらいあるのだろう。

 

 

 

サイトそのものがなくなったところも結構ある。

 

 

 

残っていても、ずっと更新されていないところがほとんどだ。

 

 

 

私のブログだって、長い間止まっていた。

 

 

 

ヒサトさんのブログも、ある時期からガーデニングの記事が中心になった。

 

 

 

何度か訪ねたことはあったけれど、

私もいつしか行かなくなった。

 

 

 

それが今年、久しぶりに訪ねてみたら、ヒサトさんはまた川柳を詠んでいた。

 

 

 

それが嬉しかった。

 

 

 

そしてもうひとつ。

 

 

 

ブログが変わらず、そこにいてくれたこと。

 

 

 

それが、とてもありがたかった。

 

 

 

20年前の記事がある。

 

 

 

コメント欄もある。

 

 

 

そこには「阿波の局」と名乗っていた私がいて、ヒサトさんと話し、笑い、ときには短歌をポンと置いて帰っている。

 

 

 

自分が書いた記事だけが、私の記録ではなかったのだ。

 

 

 

誰かの記事を読んで笑ったこと。

 

 

 

川柳に短歌を返したこと。

 

 

 

しばらく姿を見せない友達を心配したこと。

 

 

 

震災後、そこで他愛のない言葉を交わして心を休ませていたこと。

 

 

 

そんなものまで、コメント欄は残してくれていた。

 

 

 

私は以前から、短歌は写真のようなものだと思っている。

 

 

 

今回見つけた短歌も、古いアルバムから出てきた写真のようだった。

 

 

 

ただ、今までのと少し違う。

 

 

 

自分では持っていなかった昔の写真を、友達がずっと持っていてくれた。

 

 

 

そして、その友達も、その場所も、今もそこにいる。

 

 

 

だから私は15年後になって、その写真を受け取りに行くことができた。

 

 

 

小説の材料を探すために2011年を歩き始めたはずだった。

 

 

 

それがいつの間にか、

 

 

 

「あ、こんなのもあった」

 

 

 

「これ、忘れてた」

 

 

 

と、自分の言葉を拾う旅になっていた。

 

 

 

発掘作業は、まだしばらく終わりそうにない。

 

 

 

2011年・ヒサトさんのブログコメント欄に置いた短歌

 

 

自分のブログにはまとめて掲載せず、ヒサトさんのブログのコメント欄に「阿波の局」名義で残していた短歌。2026年9月、過去記事をたどりながら発掘。

 

2011年6月15日

 

麗しい 若い女の 胸ならば

 

見るのもよいが やんぬるかな...

 

2011年7月3日

 

夏という 季節はなぜか なつかしい

 

青春なんて 頃に似ている

 

2011年7月13日

 

春なのに 待ち焦がれてた 時なのに

 

時間を止めたい 心うらはら

 

ひと時の また会うまでの サヨナラが

 

つらくなるほど そばにいたんだ

 

2011年7月21日

 

ヒサトちゃん 泣いてなんか いないよね

 

ごぶさただから ちょっと心配

 

昨日今日 おとといまでより 涼しいね

 

気持ちまでは 淋しくしないで

 

2011年8月4日

 

夏の夜に こんな思い出 あったなら

 

祭囃子に 胸、キュンとなる

 

2011年8月21日

 

フェイスブック なんのことやら わからずに

 

登録をして 友達探す

 

2011年8月31日

 

窓の外 暗闇からの 虫の声

 

聞きつつ汗が 流れる残暑

 

2011年10月25日

 

「送信」をクリックしても行くあても

 

届くはずもない メール打つ、今日も

 

 

 

#ブログ

#短歌

#飛び立つ前の雛たち

#ヒサト

 

飛び立つ前の雛たち⑳「三つの街」



東京の部屋に着いたのは、もう夜になってからだった。

 

玄関を開け、明かりをつける。

 

何の問題もなく電気がついた。

 

荷物を置いて、裕子は洗面所へ行く。

蛇口をひねると、勢いよく水が出た。

 

手を洗い、蛇口を閉める。

 

少しして、もう一度ひねってみた。

 

やはり水は出た。

 

「……当たり前なんだけどね」

 

誰に言うでもなく呟いた。

 

トイレの水も流れる。冷蔵庫も動いている。

 

仙台では、一つ戻るたびに家族みんなで喜んだものが、ここには全部あった。

 

裕子は荷物を片付けるのを後回しにして、ベッドに腰を下ろした。

 

携帯電話を取り出す。

 

ユチョンからメールが届いていた。

 

――ソウルに着きました。

 

裕子も短く返した。

 

――私も東京に着きました。

 

それだけ送って、ベッドにごろんと横になった。

 

     *

 

三月二十二日。

 

裕子は久しぶりに出社した。

 

「この度は、ご配慮により長い特別休暇をいただき、大変ご迷惑をおかけしました。幸い、実家は無事で、父も仕事に復帰しております。本当にありがとうございました」

 

頭を下げると、上司は、

 

「いや、無事でよかった。本当に」

 

と何度も頷いた。

 

席へ戻ると、今度は同僚たちが集まってきた。

 

「裕子、本当に大丈夫だったの?」

 

同期の女性が裕子の腕をつかんだ。

 

「うん。実家は大丈夫。

台所は食器が落ちて大変だったけど」

 

「よかったあ。

私、仙台って聞いて、津波で流されちゃったのかなって。

電話もらうまで心配で」

 

「実家は仙台でも海の方じゃないから」

 

「でも、テレビ見てたら……津波が川を遡って行く映像もあって。

あんなの、私、初めて見た」

 

別の同僚も言った。

 

「毎日ずっと津波のニュースばっかりで。

ちょっと気分悪くなるくらい。

見なきゃいいんだけど、つい見ちゃうんだよね」

 

裕子は二人の顔を見た。

 

「私、津波の映像って、ほとんど見てないの」

 

「え?」

 

「仙台にいたのに?」

 

「停電してたから、テレビつかなかったし。

電気が戻ってからも、ニュースはあんまり見なかったから」

 

水を汲んで、食べ物を探して、片付けをして。

 

目の前のことで精一杯だった。

 

それに裕子の中では、あの激しい地震と津波が、まだ一つの出来事としてうまく結びついていなかった。

 

昼になり、

「裕子、お昼どうする?」

 

「あ、行く」

 

いつもの声に呼ばれ、裕子は財布を持って立ち上がった。

 

     *

 

その夜、裕子はパソコンを開いた。

 

昼間の話が気になっていた。

 

検索欄に、

 

「多賀城 津波」

 

と入れる。

 

いくつもの映像が出てきた。

 

その一つをクリックした。

 

道路に向こうから水が押し寄せてくる。

 

見る間に街は海のようになり、車が濁流に流されていく。

 

見覚えのある多賀城とは、まるで違っていた。

 

父は地震のあと、工場から帰れなくなった。

 

その日は水が引かず、翌日の十時過ぎになって、ようやく歩き始めたという。

 

その時もまだ水は引ききらず、水につかりながら歩いたと聞いている。

 

裕子は画面を止めた。

 

「お父さん、こんなところから歩いて帰ってきたんだ……」

 

それ以上は何も言わず、しばらく止まった画面を見ていた。

 

     *

 

東京へ戻ってから、裕子には一つ習慣が増えた。

 

朝、天気予報を見るとき、東京のあとに仙台の天気も見る。

 

東京より、いつも少し気温が低い。

 

母からも、ときどきメールが届いた。

 

――また雪。せっかく咲いたクロッカスが寒そう。

 

三月も終わろうとしているのに、仙台ではまだ雪が降っている。

 

 

 

> 三月も もう末なのに 雪落ちて

クロッカスも さぞ寒かろう

 

 

 

――こっちは今日は暖かいよ。

 

仙台からは、少しずつ暮らしが戻ってくる様子も届いた。

 

――今日、豆腐買えたよ。久しぶりに湯豆腐。

 

そんなメールを読んでいると、あの家の食卓が目に浮かぶ。

 

ユチョンにも送った。

 

――仙台、今日は豆腐が買えたって。母が喜んでた。

 

しばらくして返事が来た。

 

――今、仕事終わりました。

豆腐が買えたのなら、今日は湯豆腐なのかな。

寒い時は湯豆腐に限るってお父さん言ってましたから。

 

――そうなの。

いつもある豆腐が二週間くらい買えなかったからね。

 

ユチョンも、ソウルで仕事に戻っている。

 

裕子も東京で働いている。

 

震災前と同じように、二人は離れた街で、それぞれの日常を送っていた。

 

     *

 

東京へ戻って何日かは、自分でも驚くほど普通に働けた。

 

朝起きて会社へ行き、仕事をして帰ってくる。

 

ところが、休みの日。

 

目が覚めたら、いつもよりずっと遅い時間だった。

 

起きて軽く食べ、少しだけ横になるつもりでベッドに入った。

 

次に目を覚ましたときには、窓の外がもう傾きかけた日の色になっていた。

 

「……寝すぎた」

 

体を起こしたものの、まだ眠い。

 

「今ごろ疲れが出たのかな……」

 

裕子はもう一度枕に頭を落とした。

 

     *

 

三月二十八日。

 

東京で桜が咲いた。

 

通勤の途中にも、ちらほらと薄い花が見える。

 

けれど、仙台ではまた雪が降ったという。

 

母から届いたメールを読み、裕子はユチョンにも送った。

 

――こっちは桜が咲いたのに、仙台はまた雪が降ったんですって。

 

返事は夜になって届いた。

 

――ソウルもまだ寒いよ。桜はしばらく咲きそうもない。

さすがに雪はないけど。

 

裕子は少し笑った。

 

――そうなんだ。ソウルにも桜の名所、みたいなところってあるのかな?

 

――もちろん、あるよ。ソウルタワーがある南山公園とか、有名だよ。

 

南山公園。

 

ドラマでロケ地になるその公園の名前は知っていた。

 

――そうなんだ。いつか行ってみたいな。

 

送信してから、裕子は窓の外を見た。

 

東京では桜が咲き始めている。

 

仙台には、まだ雪が降る。

 

ソウルの桜も、もう少し先らしい。

 

> ソウルにも 桜の名所 あるならば

いつか訪れ 共に眺めめ