▶高圧経済 pic.twitter.com/Yy1BXK19GU
— 令和ピボットサポーターズ00 (@rps38_00) 2024年3月23日
▶多数派の専制その要因①
— 令和ピボットサポーターズ00 (@rps38_00) 2024年2月17日
大衆迎合は
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Kremlin says Russia in a ‘state of war’ in Ukraine 同記事
「特別軍事作戦」ではない。
戦争を宣言した。
今までとは、全く違うということ
【写真説明】
青空と緑に囲まれた灰色の原爆ドームが、
核兵器の惨禍を今に伝える。
1985年(昭和60年)10月、
先生は、第6回世界青年平和文化祭に出席するため、広島を訪れていた。
核兵器の廃絶は、池田先生をはじめとする
青年に、戸田城聖先生から託された
「遺訓の第一」である。
池田先生はその実現へ、対話し、提言し、
世界を駆けた。後に続く青年を信じて。
後継の3月
人類の宿命転換へ、
世界の青年が立つ時が来た。
✨ 池田先生の言葉
平和の建設は、
「諦め」と「希望」の競争である。
「無力感」と「執念」の競争である。
諦めの無力感が蔓延すれば、
それに比例して
“力に頼る風潮”は増大してしまう。
それこそが問題なのだ。
しかし、この世に、
あの地獄のような惨劇をもたらす
兵器を生み出したのは、
人間である。
ならば、人間の英知で
核兵器を廃絶できないわけがない。
平和運動は、これまで、
ともすると“一部の人々のもの”と
見られがちであった。
しかし、平和といっても、
決して日常を離れたところに
あるものではない。
現実の生活のなかに、
また一人一人の生命と人生に、
どう根本的な平和の種子を植え、
育てていくか。
ここに、
永続的な平和への堅実な前進があり、
創価学会の活動の眼目がある。
貧困や気候変動の問題をはじめ、
SDGsの目標を
達成していく道のりは、
困難の連続でしょう。
しかし、現実変革を求める
世界の青年たちの連帯があれば、
乗り越えられない壁など決してないと、
私は固く信じています。
先師も恩師も、青年の偉大な生命と
無限の力を信じ、大切にされた。
私も、青年を焦点に育成に
全力を挙げてきました。
それに応えて青年が陸続と誕生し、
成長し、活躍してきたからこそ、
創価の世界は
五大州へと発展したのです。
青年の人間革命によって、
社会も、国も、世界も、
大きく変えていけるのです。
『青年抄』
『希望の明日へ』
『誰もが輝く「人間主義の世紀」へ!』から。
✨ 人は誰しも、
幸せになることを
望んで生きる。
それでも
思い通りにいかないことも多いのが
人生だ。
✨ そんな時、
本当の支えになるのは
“施し”ではなく、
“同苦の真心”だろう。
✨ 自他共の仏性を強く信じ、
互いを尊重し合う
人間共和の世界
それが創価学会である。
【敬宮愛子内親王殿下】女性天皇こそ時代の要請 内外に誇れる敬宮愛子さま 小田部雄次教授(静岡福祉大学名誉教授) - YouTube
↑の動画で静岡福祉大学名誉教授
小田部雄次先生が敬宮愛子内親王殿下が皇位継承することは、歴史的に見ても問題ない事を様々観点から論じておられます。
この対談は2回目で、
前回の対談後にまとめられたメモには、
次のように明治政府が旧皇室典範制定に当たって、“女性天皇”を検討したことが書かれてあります。
🍀🍀🍀
✨ 伊藤博文など
明治時代を拓いたリーダーたちが
ヨーロッパを訪問するなどして、
皇室のあり方を示す
天皇家の家憲としての
典範制定に向けた検討作業を行いました。
✨ その議論の中で
英国などヨーロッパの例などを引きながら
女帝の可能性も検討に当たった委員や
政府内で議論されましたが、
女性天皇に反対である
リーダーであった
岩倉具視の意を受けながら
担当した官僚の井上毅が
「我が国では女性に参政権すらないのに、
天皇が女性というのは相応しくない」
と強く主張し、
伊藤らはこれを受け入れて
明治時代の皇室典範では
「男系男子継承」が
規定されることになったのです。
✨ そうした意味では、
歴史的資料に
女性天皇可否についての
議論が存在したことは、
明確に示されています。
✨ 結果として、
歴史上8人10代にわたり確認できる
女性天皇の存在があったのに、
明治から
女性天皇が認められなくなったのは、
江戸時代までに強まった
男尊女卑傾向が
明治に引きずられて、
それが背景になったものといえます。
🍀🍀🍀
・旧皇室典範制定に当たって
女性天皇が検討されたこと
・歴史的に見ても
8方10代の女性天皇が存在したこと
この2点だけを見ても
“万世一系男系男子継承が皇室の伝統”というのは間違いであることが分かります。
*女系天皇について
古代において、女帝が続いた時代があります。
この時代は、皇女は4世以内の皇族としか
結婚できなかったので、
女性天皇は全て結果的に“男系”とも言えます。
しかし、元明天皇は、自身が即位した後
次女吉備内親王の3人の息子(王)を、
「私は天皇であるから、私の孫(吉備内親王の息子たち)は、皇孫として扱う。」という内容の詔を発して皇位継承権を与えています。
吉備内親王の父草壁皇子は即位してないので、本来は王(女王?)なのかもしれません。
また、吉備内親王の夫長屋王は天武天皇の孫(父は高市皇子 庶長子)ですから2世で、男系をたどれば吉備内親王の息子は3世となり、
皇位継承権はあってもかなり下位となるでしょう。
ですからわざわざ、詔を発して
「天皇の孫2世だから、皇位継承権を与えた」(しかもかなり高い)のだと思います。
とすると、男系の血脈があるとは言え、
女系天皇と言えるのではないでしょうか。
実際には“長屋王の変”において長屋王一家は謀叛の疑いをかけられ自害して果てましたが、女系天皇への道を準備していたと考えられます。
また、文武天皇には3人の息子、
首皇子(聖武天皇)、高円広成?、高円広世?がいたとされています。
呼ばれていましたが、
父草壁皇子は即位せず亡くなった為、
正確には「皇子」(天皇の一世)ではなく「王」(天皇の二世)です。
しかし、祖母である持統天皇の意向から、
立太子以前から
“皇子”の扱いを受けたと思われます。
当時、皇后(および妃)は
皇族出身であることが常例で、
皇位継承者に内定していた段階で、
将来の皇后となるべき
皇族出身の妃がいたはずですが、
『続日本紀』には
妃や皇后を持った記録はなく、何らかの原因で持つことができなかったか、記録から漏れた(消された)と考えられます。
記録にある文武天皇の妻は
夫人(ぶにん)藤原宮子(藤原不比等の娘)
嬪(ひん)石川刀子娘
紀竈門娘 です。
文武天皇は15歳で即位(当時としては早い20歳以降が通例)25歳で早世します。
息子の首皇子は7歳であったため、文武天皇の母が元明天皇として即位します。
そして、元明天皇は娘の元正天皇に皇位を嗣がせます。元正天皇も草壁皇子の娘ですから、天武天皇から数えれば3世です。
天武天皇には、他にも皇子(2世)がいるのに
元明天皇→元正天皇は女系女性天皇継承と言えるのではないでしょうか。
これは、ある意味
皇位争いとも言えます。
蘇我氏(石川氏)は
天皇家の母方氏族として、
また大化以前における
唯一の大臣(オホマヘツキミ)家として、
その尊貴性を認められていました。
欽明天皇以来、何代にもわたり
広成(広世)が皇籍を剥奪され、
その母、嬪(ひん)石川刀子娘も嬪の位を剥奪されています。
これは、首皇子(後の聖武天皇 藤原宮子所生)の競争相手を排除しようとして
藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀とされていて、母系が蘇我氏から藤原氏へ移っていったことを意味します。
持統天皇、元明天皇、元正天皇は、蘇我氏の娘の血を引いています。
母系に着目されることは少ないですが、
当時は子どもは母の家で育つため、
母の身分が皇位継承順位に大きな要素となりました。
吉備内親王の息子への継承を考えていたと思います。