【敬宮愛子内親王殿下】女性天皇こそ時代の要請 内外に誇れる敬宮愛子さま 小田部雄次教授(静岡福祉大学名誉教授) - YouTube
↑の動画で静岡福祉大学名誉教授
小田部雄次先生が敬宮愛子内親王殿下が皇位継承することは、歴史的に見ても問題ない事を様々観点から論じておられます。
この対談は2回目で、
前回の対談後にまとめられたメモには、
次のように明治政府が旧皇室典範制定に当たって、“女性天皇”を検討したことが書かれてあります。
🍀🍀🍀
✨ 伊藤博文など
明治時代を拓いたリーダーたちが
ヨーロッパを訪問するなどして、
皇室のあり方を示す
天皇家の家憲としての
典範制定に向けた検討作業を行いました。
✨ その議論の中で
英国などヨーロッパの例などを引きながら
女帝の可能性も検討に当たった委員や
政府内で議論されましたが、
女性天皇に反対である
リーダーであった
岩倉具視の意を受けながら
担当した官僚の井上毅が
「我が国では女性に参政権すらないのに、
天皇が女性というのは相応しくない」
と強く主張し、
伊藤らはこれを受け入れて
明治時代の皇室典範では
「男系男子継承」が
規定されることになったのです。
✨ そうした意味では、
歴史的資料に
女性天皇可否についての
議論が存在したことは、
明確に示されています。
✨ 結果として、
歴史上8人10代にわたり確認できる
女性天皇の存在があったのに、
明治から
女性天皇が認められなくなったのは、
江戸時代までに強まった
男尊女卑傾向が
明治に引きずられて、
それが背景になったものといえます。
🍀🍀🍀
・旧皇室典範制定に当たって
女性天皇が検討されたこと
・歴史的に見ても
8方10代の女性天皇が存在したこと
この2点だけを見ても
“万世一系男系男子継承が皇室の伝統”というのは間違いであることが分かります。
*女系天皇について
古代において、女帝が続いた時代があります。
この時代は、皇女は4世以内の皇族としか
結婚できなかったので、
女性天皇は全て結果的に“男系”とも言えます。
しかし、元明天皇は、自身が即位した後
次女吉備内親王の3人の息子(王)を、
「私は天皇であるから、私の孫(吉備内親王の息子たち)は、皇孫として扱う。」という内容の詔を発して皇位継承権を与えています。
吉備内親王の父草壁皇子は即位してないので、本来は王(女王?)なのかもしれません。
また、吉備内親王の夫長屋王は天武天皇の孫(父は高市皇子 庶長子)ですから2世で、男系をたどれば吉備内親王の息子は3世となり、
皇位継承権はあってもかなり下位となるでしょう。
ですからわざわざ、詔を発して
「天皇の孫2世だから、皇位継承権を与えた」(しかもかなり高い)のだと思います。
とすると、男系の血脈があるとは言え、
女系天皇と言えるのではないでしょうか。
実際には“長屋王の変”において長屋王一家は謀叛の疑いをかけられ自害して果てましたが、女系天皇への道を準備していたと考えられます。
また、文武天皇には3人の息子、
首皇子(聖武天皇)、高円広成?、高円広世?がいたとされています。
呼ばれていましたが、
父草壁皇子は即位せず亡くなった為、
正確には「皇子」(天皇の一世)ではなく「王」(天皇の二世)です。
しかし、祖母である持統天皇の意向から、
立太子以前から
“皇子”の扱いを受けたと思われます。
当時、皇后(および妃)は
皇族出身であることが常例で、
皇位継承者に内定していた段階で、
将来の皇后となるべき
皇族出身の妃がいたはずですが、
『続日本紀』には
妃や皇后を持った記録はなく、何らかの原因で持つことができなかったか、記録から漏れた(消された)と考えられます。
記録にある文武天皇の妻は
夫人(ぶにん)藤原宮子(藤原不比等の娘)
嬪(ひん)石川刀子娘
紀竈門娘 です。
文武天皇は15歳で即位(当時としては早い20歳以降が通例)25歳で早世します。
息子の首皇子は7歳であったため、文武天皇の母が元明天皇として即位します。
そして、元明天皇は娘の元正天皇に皇位を嗣がせます。元正天皇も草壁皇子の娘ですから、天武天皇から数えれば3世です。
天武天皇には、他にも皇子(2世)がいるのに
元明天皇→元正天皇は女系女性天皇継承と言えるのではないでしょうか。
これは、ある意味
皇位争いとも言えます。
蘇我氏(石川氏)は
天皇家の母方氏族として、
また大化以前における
唯一の大臣(オホマヘツキミ)家として、
その尊貴性を認められていました。
欽明天皇以来、何代にもわたり
広成(広世)が皇籍を剥奪され、
その母、嬪(ひん)石川刀子娘も嬪の位を剥奪されています。
これは、首皇子(後の聖武天皇 藤原宮子所生)の競争相手を排除しようとして
藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀とされていて、母系が蘇我氏から藤原氏へ移っていったことを意味します。
持統天皇、元明天皇、元正天皇は、蘇我氏の娘の血を引いています。
母系に着目されることは少ないですが、
当時は子どもは母の家で育つため、
母の身分が皇位継承順位に大きな要素となりました。
吉備内親王の息子への継承を考えていたと思います。