“視線”について、思いついたことなどを追記。
シホンとインギュが友だちになったきっかけの補聴器。
確か、シホンは「見せて」じゃなく、
「貸して」(使ってみたい)と言ってたと思う。(確認しろよ!自分)
「見せて」と言ったのなら、インギュは拒んだかもしれない。
補聴器を手に取って、蔑むような視線でジロジロ見られたら、また、自分を否定されたような気分になるだろう。
けれど、シホンは宝物にしている大きいビー玉をあげて、補聴器を借りると、それを付けようとする。
上手くいかなくて、インギュが耳に付けてやると、聞こえ方が変わって、まるで別世界を体験しているような表情をする。
そして、「カッコイイもの持ってて、羨ましい」と。
自分と違うらしいインギュの世界を体感したかったのだろう。
シホンの視線は、いつも優しい。
それは、幼いジュニに対してもそうだし、
内気なミンジュとインギュの事も、微笑ましく見詰めている。
インギュがミンジュを見る視線も優しい。
同情ではなく、「そのままの君が素敵なんだよ」と見ている。
見ているだけでなくて、言葉にして「だから、自信を持って」と言えれば良かったのに。
インギュがミンジュを見つけて、好きになれたのは、きっと片耳が不自由だったから。
友だちが作りにくいつらさも理解できるし、
何より、唇を読む(読唇術)事を、必要に迫られて身に付けていたから、屋上で独り呟いているミンジュの心を知ることが出来た。
インギュは、シホンに“カッコイイ”と言われても、補聴器を付けてる事の劣等感を払拭出来なかった。
どうしてなんだろう?
インギュがミンジュに「片耳が不自由だったからこそ、僕は君の気持ちを知ることがで来て、励まして友だちになりたいと思えた。
補聴器を付けてる事を、今は恥ずかしいとか思ってないよ。」そう言えたら良かったのに。
インギュは、シホンに対して劣等感(というか常に借りがある)が拭えなかったのだろうか?
いくらシホンが友だちとして対等でいようとしても。
物事は、それ自体に幸不幸はないんだと思う。
それを、どう捉えるかなのだ。
両目が見えない人が「僕が頑張って生きて、幸せになれるんだという姿を見せれば、人を励ます事が出来る。
同じ事をしていても、見えてたら励ますことが出来ない。見えないことは、僕の使命なんだと。」
仏法に『願兼於業』と言う言葉がある。
願い、業を兼ねると読むのだが、様々な業
病気や障害、上手くいかないことなどは、
自分が願って、そういう自分でも幸せになれるという事を示すために、敢えて背負って生まれたという考え方だ。
ク・ヨンジュン(シホン)は、インギュを失ったからこそ、「友だちがつらいときは話を聞いてあげて」と言えた。
ジュニも父が病気になったときの母の姿を見ていたから「あなたがつらいときは、私が聞いてあげる」とヨンジュンに言えた。
何もなくて満たされている事が幸せなんじゃない。
哀しみや困難やつらさを乗り越えて、それでも出来ることはある、だからこそ同じつらさの人を励ます事が出来ると思えたならば、
何があっても幸せになれるのだと思う。
思いつくままに書いてみた。(後で直すかも)